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京都外国語大学 森田嘉一理事長·総長:DNAに刻まれた教育愛

2019年 7月 11日9:22 提供:東方網 編集者:王笑陽

京都外国語大学 森田嘉一理事長·総長:DNAに刻まれた教育愛

 3月7日、「2019年第6回上海白玉蘭会」が開催された。年会には2008年上海市白玉蘭記念賞及び2017年上海市白玉蘭栄誉賞受賞者である、京都外国語大学 理事長·総長で日本私立大学協会副会長の森田嘉一氏が88歳の高齢にもかかわらず出席した。

 実は、森田理事長·総長は1987年から毎年必ず上海を訪れている。それは年に一度の「上海市大学生日本語スピーチコンテスト」に出席するためだ。この大会は京都外国語大学と上海国際教育交流協会の共催によるもので、昨年ですでに31回を数える。

 毎年上海を訪れているので、森田理事長·総長は31年間の上海の変化を、自分の目でずっと見てきた。記者が上海の今後の発展についての提言を求めると、「上海は非常にスピード速く近代化している。だがやはり古くて大事な文化や、上海の人たちがこれまで作り上げたいいものをぜひ残してもらいたい。日本語には『不易流行』という言葉があり、変えてはいけないものがあると思っている」、と答えた。

 「不易流行」とは江戸時代の俳人である松尾芭蕉が提唱した俳諧の理念の一つだ。世の中がどう変化しても不変なるものが不易、その時々に応じて変化してゆくものが流行である。両者は一見すると対立する概念だと思われるが、実はその根本は一つのものだ。今、多くの経営者がこの言葉を経営哲学として信奉しているとされる。森田理事長·総長がここで話したのは、上海の発展の過程においては、「不易」と「流行」のバランスをとるのが大事だという意味だろう。

 振り返ってみれば、森田理事長·総長自身のストーリーも「不易流行」という言葉で語ることができるかもしれない。


30年以上続く大会

 京都外国語大学 森田嘉一理事長·総長は、2008年上海市白玉蘭記念賞と2017年上海市白玉蘭栄誉賞の受賞者であり、中日友好事業のためにこれまで多大な貢献をしてきた。特に1987年から上海教育国際交流協会と京都外国語大学の共催で行われてきた「上海市大学生日本語スピーチコンテスト」(2018年に「上海市大学生日本語プレゼン大会」に名称変更、以下「スピーチコンテスト」と略)と、「西日本地区学生中国語弁論大会」(現在「全日本学生中国語弁論大会」、以下「弁論大会」と略)の2つの大会は、森田嘉一理事長·総長が最も尽力してきた大会だ。

 上海教育国際交流協会の姜海山会長は我々の取材に応じ、「森田理事長·総長は私が最も尊敬する日本人だ。この一言はぜひ記事に書いてもらいたい」、と語った。

 姜会長によると、2つの大会が開催されてきたこの30年間、中日両国の関係には様々な曲折があった。経済面にも大きな変化があったが、森田理事長·総長のおかげで2つの大会は今まで続いてきたという。

 大会が発足したばかりの1980年代後半、中国では経済がまだ十分には発達していなかったため、国際教育交流イベントを開催する経費が不足していた。

 「最初の数年間、森田理事長·総長は日本で開催された弁論大会の費用だけでなく、中国のスピーチコンテストの費用も負担してくれました。90年代に日本のバブル景気が崩壊して、私立大学である京都外国語大学の経営も困難になりましたが、森田理事長·総長は2つの大会を開催し続けるために依然として費用を提供してくれたのです」。

 そして、2012年のことも姜会長に強く印象に残っている。その年、釣魚島事件の影響で中日両国の関係が非常に緊張したため、上海のスピーチコンテストはやむを得ず中止となった。しかし日本では、森田理事長·総長が国内の政治と世論の圧力にも屈せず、期日どおりに弁論大会を開催したのだ。

森田嘉一理事長·総長と姜海山会長

 これまで2つの大会に参加した両国の大学生は1000人を超え、また、大会で優勝して互いに訪問した大学生とその指導教師の数は240人近くにのぼる。大会はすでに中日両国の大学生が相互に交流し、勉強するプラットフォームとなり、中日民間交流の典型的な例ともなっている。そこで上海市応勇市長は森田理事長·総長に敬意を表して、「上海大学生日本語スピーチコンテスト」開催30周年の2017年に、理事長に「上海市白玉蘭栄誉賞」を授けた。

 30年以上も続いている2つの大会は、彼が「流行」の中に守ってきた「不易」であろう。実は、「不易」を守りながら新しさを求める「流行」性も森田氏は重んじている。去年行われた「第31回上海市大学生日本語スピーチコンテスト」は、名前を正式に「上海市大学生日本語プレゼン大会」に変更し、コンテストがスピーチからプレゼンテーションの形になると同時に、作文項目も加えられた。森田理事長·総長によると、日本で行われている「全日本学生中国語弁論大会」も現在はこの形式になっており、この変更によって両国の大学生には言語能力だけでなく、全体的な資質の高さも強く要求されるようになったという。

 森田理事長·総長は「今の世界はグローバル化社会なので、いろんな国から品物が入ってきて、また、自分の国のものも売らなければならない。その時やはりただその国の言葉を話すだけでなくて、どのようにプレゼンをするかなども大事だ」、と説明した。

 これがまさに31回も開催された「上海市大学生日本語スピーチコンテスト」が「プレゼン大会」となった理由である。時代に応じて変化を重ねていく「流行」性こそが「不易」の本質であることを森田理事長·総長は理解し、実践していると言えよう。


三世代を超えた教育愛

 森田嘉一氏は1976年に京都外国語大学理事長·総長になってからすでに43年が経つ。しかし、彼は自分の教育事業への執着と熱心さは「DNAに刻まれた生まれつきのものだ」と信じている。

 中国清朝の末期にあたる1903年、森田理事長·総長の祖父である吉澤嘉壽之丞氏は、実業家、政治家、教育家と称される張謇に招かれて、王国維氏や木造高俊氏と一緒に中国の南通市に赴いた。そして中国の最初の師範大学とされる「通州民立師範学校」で教師として務め始めた。その夏休みには一時帰国し、翌年、吉澤氏は妻の森田政子と息子の一郎を連れて南通に戻った。その後森田理事長·総長の祖母に当たる森田政子女史も、張謇氏の創設した「扶海垞家塾」(南通の最初の近代的な幼稚園)と「通州女子師範」(中国の最初の女子師範大学)で教師を務めた。

 吉澤嘉壽之丞氏は南通で在職時間の最も長い日本国籍の教師とされる。彼は1914年に日本に帰国後、松本亀次郎、杉栄三郎とともに「東亜高等予備学校」を創立。同校は大量の中国人留学生に対し、日本の大学に進学するための補習授業を提供した。周恩来、魯迅、周作人、陳独秀、李大釗、郭沫若、郁達夫なども同校で勉強したことがある。その一方、森田政子女史は日本の発達した女子教育の理念を中国に導入し、南通の幼児教育、女子教育の開拓者の一人と称される。

 その後、森田理事長·総長の父親である森田一郎氏は、1947年5月に京都外国語大学の前身である「私立京都外国語学校」を創立した。

 森田理事長·総長は祖父母の中国での経歴を小さい頃から知っていたわけではない。だから京都外国語大学の理事長·総長になっても、なぜ祖父が「東亜高等予備学校」、父親が「私立京都外国語学校」を創立したか、なぜ家族は朝ごはんにお粥を食べる習慣があるかなどの疑問が、いつも心に纏わりついていた。

南通を訪れて祖父母の足跡をたどる森田嘉一氏

 2017年、京都外国語大学の彭飛教授は偶然な機会から、通州民立師範学校が現在の南通師範高等専科学校の前身であることを知人から聞く。また南通師範高等専科学校には、森田理事長·総長の祖父母に関する書類がまだ保存されていることも分かった。そこで2018年5月、森田理事長·総長は南通を訪れ、祖父母の足跡をたどった。そうしてずっと心に纏わりついていた疑問も氷解する。その答えは祖父母の教育愛にあり、祖父が張謇氏の招きに応じた1903年にあり、祖父を招いた張謇氏にあった。

 南通師範高等専科学校の曹炳生先生と都樾先生が編集した『吉澤嘉壽之丞と森田政子ご夫妻:南通師範に関する資料』によると、張謇氏は通州民立師範学校の開学の挨拶において、「日本は中国と同じアジアに属し、同文同種。教育改革はわれわれよりも先に行われている。そのため木造先生と吉澤先生に遠方から来ていただいた。王国維先生、池文藻先生、晋藩先生はわれわれの同志であり、皆様は教育に情熱を燃やしている教育者である。皆様に来ていただいたことは、本学にとってとても光栄なこと」、と述べている。

 この教育への情熱が百年以上も燃え続け、森田家族の三代に伝承されてきたのである。祖父の吉澤嘉壽之丞氏は南通で長年教師を務め、帰国後に「東亜高等予備学校」を創立。父親の森田一郎氏は「私立京都外国語学校」を創立。そして森田嘉一氏は京都外国語大学の理事長·総長を務めて、「上海市大学生日本語スピーチコンテスト」と「全日本学生中国語弁論大会」を30年以上も開催し続けている。

 森田家の三代は中日教育の百年間の「流行」の目撃者であり、経験者であり、さらに創造者でもある。そして「不易」は森田家三代の教育事業への執着と情熱なのだ。

(W)