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上海〜長崎航路復活の旅(中)港町に多くの中国の“味”
2011年 11月 15日9:38 / 提供:

 「Ocean Rose」にさようならと言いながら、車は大浦町にある孔子廟(こうしびょう)や、長崎歴史文化博物館へ移動した。

 古より中国と日本は隣国として絶えることない交流があった。近世において、江戸幕府により唐人屋敷に中国人の居住が、出島にオランダ商館員の居住が許され、長崎は日本最大の国際貿易都市となった。明治になって、日本人の海外渡航が緩和されると、長崎の人々はこれまでのコネクションを活かし、中国へ活動の舞台を広げていった。

 そんな長崎人の一人に梅屋庄吉(1868-1934)がいる。1895年(明治28)、梅屋は香港で孫文(1866-1925)と運命的な出会いを果たし、深く共鳴し合う。この後、梅屋は生涯をかけ孫文とその同志たちを支えることとなる。

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梅屋庄吉の功績をたたえる孫文の揮毫=長崎歴史文化博物館で

  長崎歴史文化博物館で2012年3月25日までに開催される。「知られざる偉人」梅屋庄吉・妻トクの生涯と、孫文・妻宋慶齢の友情の物語を中心に、長崎の日中交流資料はもとより、小坂文乃氏(梅屋庄吉曾孫)秘蔵の資料や北京・上海・武漢・南京など中国国内に収蔵される貴重な関係文物が今回初めて日本で公開される。

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列を並んで中国代表団を歓迎する諫早市の関係者ら

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中国女性(中央)と記念写真におさまる諫早市の生徒ら=眼鏡橋で 

 翌日、諫早市にある眼鏡橋へ移動すると、その近くで諫早市の関係者や大学生らが「熱烈歓迎!」という中国語で書いた横断幕を掲げて出迎え、中国訪問団と交流していた。その中で、68歳の願能良一氏が自費で中国訪問団をハウステンボスまで、額の汗を拭きながら案内してくれた。

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自費で中国訪問団をハウステンボスまで案内する願能良一氏

 願能氏は福岡県出身で、中国の山東省済南市の師範大学や福建省のアモイ大学で計7年間、日本語教師を担当しており、今年上半期に退職して、諫早市に戻った。中国訪問団が来ると聞いて、その日の朝、わざわざ音楽テープの販売店へ行って「梁山泊と祝英台」という中国の名曲カセットを買い取り、中国訪問団の乗った車で流したという。

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中国代表団の到来を待つ子供たち

 願能氏はまた、上海での思い出を懐かしく語り、「日中友好は何より大事だ」と強調し、中国訪問団全員に深い印象を残した。 また、諫早市にある「うなぎの蒲焼店」の前で、同市の保育所の園児数十人が中国訪問団に「熱烈歓迎!」という中国語で書いた横断幕を掲げて踊ったりした後、紙で作った心を込めたお土産を贈った。中国訪問団は深く感動した。

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踊りを披露する子供たち

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自分で作った「心」を中国訪問団に贈呈する女の子

 また、12歳の子供を連れて中国訪問団を歓迎したアメリカ人のトマス氏もいた。トマス氏は26年前に長崎に来て、日本人の女性と結婚し、主に貿易の仕事に携わっているが、今後、上海との貿易も念頭に入れ始めるという。

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中国語で書いた横断幕を掲げて各地での歓迎ムード

 その後、雲仙などへ行くとあちこちに「熱烈歓迎!」という中国語で書いた横断幕が掲げてられ、草の根の交流が続いた。

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中国語で書いた横断幕を掲げて各地での歓迎ムード

  日本の鎖国時代、長崎は海外文化の華を咲かせた。西洋文化とキリスト教をもたらしたポルトガル、オランダ。そして風俗、文化、宗教において最も影響を与えた中国。数百年の時を重ねても、長崎は今なお「おくんち」「精霊流し」「ペーロン」などの祭や盂蘭盆の行事、名物料理にと、日常生活の中に中国色を色濃く残している。また街中には唐人屋敷跡を残す館内町、唐寺のある寺町通り、当時の長崎人と中国との密接なかかわりの足跡を見ることができる。

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中国語で表記の品物=商店街で

 長崎の孔子廟について、日本観光通訳協会の正会員である鄭紅星氏は、長崎には日本の他の地域にもなく、中国にもない「宝」があるとしている。

(章坤良 写真:章坤良 曹俊)

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