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【中日双语专栏】誕生秘話――日本の出稼ぎ労働者の愛唱歌だった「北国の春」

2016年 8月 9日16:53 編集者:兪静斐

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作者:莫 邦富

 「北国の春」は中国で最もよく知られる日本のポピュラーソングだといえるだろう。朝日新聞のベテラン記者である伊藤千尋さんが2010年5月に上梓したルポルタージュにはこの曲が生まれた背景が綴られている。

 まず一般的に、「北国の春」で歌われているのは東北や北海道の北国の情景だと思われているが、それはまったくの誤りで、正確には中部地方である長野県一帯の風景である。長野県の北八ヶ岳山麓、標高1500メートルにある八千穂高原には100万本の白樺が林立し、東洋一美しい白樺林といわれる。村の小さな神社の境内には春になると真っ先に咲くこぶしの木がある。

 1977年正月、作詞家のいではくさんは、レコード会社からの依頼を受けて、歌手の千昌夫さんのための歌を作っていた。当時、CMで千さんが故郷である岩手県のことを話題にしていたため、千さんが持つ北国のイメージを際立たせようと、まずタイトルを決めた。それが「北国の春」である。いでさんは岩手に行ったことはなかったが、長野と岩手はどちらも寒い地方で、春を待ち望む気持ちも近いだろうと考えた。そして、ふと子供時代を過ごした村のことが思い浮かんだ。八ヶ岳から吹き下ろす北風が突然南風に変わると、大きな花を咲かせる神社のこぶし。朝霧に浮かび上がる白樺林の水車小屋や丸木橋……。そうしたことがひとりでに、いでさんの書く歌詞となっていった。東京の大学で学んでいた頃に、級友たちの部屋でそれぞれの母親から届いた故郷の名産を目にしたことも思い出した。また、いでさんは父親を早くに亡くし、大阪で働く兄からの仕送りを頼りに学生生活を送ったため、もし父親が生きていたらきっと囲炉裏で兄と黙って酒を飲んでいただろうと想いを巡らせた。故郷や肉親への万感の思いが自然と歌詞に変わった。

 書き上がるといでさんは、同じく都内在住の作曲家·遠藤実さんの自宅に歌詞を持参した。遠藤さんは廊下で歌詞を立ち読みすると、「ちょっと水割りでも飲んでいてくれ」といって2階に上がったが、5分ほどで降りてきた。何か忘れ物でもしたのかと思ったら、遠藤さんは「曲ができたぞ」といでさんにいったという。

 その5分のことを、遠藤さんは後に著書『しあわせの源流』のなかで、「脳裏には、故郷といっていい新潟の春の情景が鮮やかに浮かび上がっていた」と書いた。幼少の頃は家が貧しく、夜中に雪が枕元に吹き込んで寒さに泣いたが、その分、春になって花が咲き、青空が広がったときの喜びもひとしおだった。そうした経験をしていたこともあって、曲は一気に書き上がった。だが、春を迎える喜びをより強調するため、もとは「北国の春」と書かれていた歌詞を「北国の、ああ北国の春」に変えた。また、「あの故郷へ帰ろう」という歌詞を「あの故郷へ帰ろかな」に変えた。故郷へ戻る決意を願望に変え、帰りたい気持ちはあれど実際には帰れないという憂いを際立たせ、現実味を付加したのである。

 そしてふたりはすぐに千さんを呼び、ピアノで伴奏して千さんが歌った。歌いながら、千さんの脳裏にはよれよれのコートを着た故郷岩手の人々が浮かんだという。その後、千さんは周囲の反対をよそによれよれのコート姿でテレビに登場し、故郷を偲ぶこの曲を高らかに歌い上げた。

 当時の日本は経済成長を続けており、都市部の出稼ぎ労働者はおおむね新潟など東北からやってきた、苦労をいとわず懸命に働く人々だった。彼らは「北国の春」のなかにおのれの姿を重ね、言葉にできぬ心の声を聞いた。そうして人気に火のついた「北国の春」は1979年までに500万枚を売り上げ、国民的愛唱歌となった。その歌声はさらに国境を越え、1988年には中国で「過去10年で最も知られる外国の歌」に選ばれた。台湾では「榕樹下(ガジュマルの下で)」「晴空万里(青空どこまでも)」など5つものカバーバージョンが登場し、香港では「故郷的雨」というタイトルの広東語版で歌われた。テレサ·テンの珠玉の歌声による「我和你(私とあなた)」は、タイ·モンゴル·インド·ベトナム·フィリピン·ハワイ·ブラジルでも歌われ、15億人に愛される歌となった。 

(日本語訳:廣江祥子)