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因縁(二)

2016年 5月 13日16:41 編集者:兪静斐

  作者:銭 暁波

 前回の続きである。

 谷崎潤一郎と芥川龍之介の性格や文学に対する見解での相違は明らかであった。これがために当時の上海に対する二人の見方もはっきりと分かれた。

 谷崎潤一郎が生涯唯一行った海外は中国で、1918年と1926年の二回訪れた。一回目は北京、天津、漢口、南京、上海、杭州などの地を歴遊したが、二回目は上海だけであった。はじめて上海を訪れたとき、上海の西洋化ぶりに驚きと喜びを隠しきれず、「欧羅巴の地を踏んでいるような嬉しさを味わった」(『東京をおもふ』)。将来上海で「一戸を構えてもいい」(『上海見聞録』)という思案が出るほど上海贔屓(びいき)であった。

 一方、芥川龍之介は谷崎に遅れること約三年、大阪毎日新聞社の特派員として1921年3月から7月の間に上海、南京、漢口、洛陽、北京、天津などを回った。帰国後、「上海游記」、「江南游記」と題した紀行文を『大阪毎日新聞』および『東京日日新聞』に連載した。しかし、谷崎の上海礼賛とは反対に、芥川は上海の俗悪ぶりをとことんけなした。「上海遊記」において芥川の天才的ともいうべき皮肉の才能が存分に発揮され、全編にわたり、辛辣かつ執拗な揶揄が目立ち、上海に対し露骨な嫌悪感をあらわしたのであった。

 上述のように、経歴こそ似ていながらも、小説の書き方や洋の東西文化に対する考えがほぼ真っ向から対立している二人だが、実は意外なところで関係が深いのである。

 前に述べたが、「小説の筋」をめぐる文学論争真っ只中の1927年に、芥川龍之介が講演会のために大阪へ赴き、谷崎潤一郎と宿泊先でも文学論を交わした。芥川のファンである根津松子が宿に訪ねてきて、そこで谷崎潤一郎とも会うことになった。それをきっかけに、谷崎潤一郎は根津家と家族ぐるみの付き合いをしはじめ、さらに、大恋愛の末、1935年に松子夫人と結婚したのであった。

 このことで、「手前と今の家内とを結びつける縁を作って下すったのは、芥川さんに外ならないのでございます」と谷崎がいうように、芥川は「結びの神」となっている(『当世鹿もどき』)。しかし、残念なことに、その年の7月24日、奇しくも谷崎の誕生日に芥川が自殺したのであった。

 実は、この「縁結び」のほかに、谷崎と芥川にはさらに意外な関係があった。

 谷崎潤一郎は生前、京都法然院に「空」と「寂」が彫られた自然石のお墓を作り、亡くなった後に「寂」の石の下にて永眠。小生は京都に行くたびに、掃苔(お墓参り)する習慣がある。一方、芥川龍之介は、亡くなった後に、東京巣鴨にある芥川家の菩提寺である「慈眼寺」に葬られた。毎年の命日は「河童忌」と呼ばれ、芥川を偲ぶ日となっている。何年か前に小生も機を得て、お墓参りのために「慈眼寺」を訪ねた。芥川龍之介のお墓の近くに、意外にも谷崎潤一郎のお墓があるのを発見し、驚いたのであった。後になって資料などを調べたら、「慈眼寺」にある谷崎潤一郎のお墓は谷崎家代々の墓地で、法然院から分骨したものであるとわかった。

 日本近代文学を代表する二人の文学者は、友人でいながら激しく論争も交わし、泉下の客となっても、隣人として交友関係を続けている。

 さて、「因縁の深い」お二人は「慈眼寺」の下で今度は、何についてお話をしているんだろうね。(了)