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魯迅は上海のレストランPRの達人

2021年 8月 13日16:59 提供:東方網 編集者:曹俊

  魯迅は56年間の人生最後の9年を上海で送った。その9年間に記録したレストランは75店ある。魯迅は自分が料理好きというだけでなく、友人にもおいしいレストランを熱心に勧めていた。

杭州西湖

  当時、知味観というレストランがあった。西湖酢魚(甘酸っぱい魚のあんかけ料理)、東坡肉(豚肉の煮込み料理。北宋の詩人蘇軾が考案したとされ、料理の名前は彼の号である「蘇東坡」に由来)、叫花鶏(後述)など本場の杭州料理が看板で、1930年代の上海で有名だった。

  魯迅は紹興の生まれで、当然杭州料理を好んで食べた。

  上海に引越しした後、彼が最初にしたのは知味観に茅盾、内山完造などを招待することだった。

  1933年10月23日、魯迅の日記にはこう書かれている。「知味観で宴を開く。福民医院院長と吉田君、高橋君、そして経理の古屋君を夕食に招待。協和の次男の病気平癒のお礼なり。また高山君、高橋君と内山君など計8人を招待する」。

  福民医院は魯迅が治療のためによく通った病院で、周海嬰が生まれたところだ。同級生である張協和の次男が病気になったので、魯迅は内山完造の紹介でその子供を福民医院に送った。院長が担当して手術は順調に成功する。それだけでなく、魯迅はすべての医薬費を支払った。

  難関を無事に乗り越えた人々はレストランに集まって談笑しあった。魯迅は叫花鶏、西湖じゅん菜のスープなどの看板料理を注文し、客に叫花鶏の歴史と料理法を紹介する。

  「1500グラムの雌鶏を選び、えびやハムなどの材料を腹に詰める。鶏をまるごと蓮の葉をくるんだ後、さらに粘土で全体を包んでオーブンで3~4時間蒸し焼きにする」。

  焼き上がった叫花鶏は色も香りも満点で、日本の友人を虜にしたようだ。

  福民医院の院長はその後日本に帰国して杭州料理を幅広く紹介する。これによってこの料理は日本で根を下ろして発展していった。

  それから約半世紀たった時、日本の中国料理代表団と日本主婦の友の人々が上海を訪れた。そして唯一のお願いとして、「本場の叫花鶏と西湖酢魚を食べに、知味観へ連れて行ってもらえませんか?」と尋ねたという。

  今は杭州に行かないと知味観の料理を食べることはできない。

(編集:曹 俊)