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上海

魯迅人生最後の10年、上海の住まいは3ヶ所

2021年9月24日 16:39
 提供:東方網 編集者:曹俊

  9月中旬、上海虹口区甜愛路にある魯迅記念館で、「前哨」という特別展が開かれた。魯迅が生命の最後の10年間(1927年10月3日から1936年逝去まで)を送った時期の、貴重な手書き原稿を展示している。最初の展示品は魯迅が上海に着いた翌日に書いた手紙で、最後の展示品は逝去前に書いた『太炎先生で思い出した2、3のこと』だ。『新民週刊』が伝えた。

 上海は魯迅が人生最後の10年間生活した都市というだけでなく、創作キャリアで最も重要な10年間でもある。この10年の間に魯迅は父親になり、中国文学の「ゴッドファーザー」になった。

 上海の住まいは3ヶ所で、一ヶ所には3年ほど住み、すべて貸家だ。

景雲里

 最初は景雲里で、多倫路横浜路あたりにある旧式の住宅だった。1927年10月3日、魯迅と許広平は船で広州から来て、5日後に景雲里23号に落ち着いた。そこにはすでに魯迅の弟である周建人や文化人士茅盾、葉聖陶などがいた。23号は隣人がしょっちゅうマージャンをやったり、歌を歌ったりして創作ができなかったので、間にあった18号と17号に住まいを移したりしている。

ラモスアパート

 1930年の5月になって、ラモスアパート(現在の四川北路2079号~2099号)に引越しした。西洋式の建物で、赤いレンガのビルは当時、日本軍の陸上軍司令部があった。ここに唯一の中国人として住んだ魯迅だが、その部屋の前の住人は日本の船員で、日本人の友人である内山完造を通じて借りた。

 1930年9月、上海文芸界が魯迅の50歳の誕生日を祝うことになり、アメリカの女性作家が会場としてレストランを借りた。17日午後、誕生日パーティーが始まり、魯迅と許広平が1歳の息子の周海嬰を抱いて登場した。パーティーで彼の目はきらきらと輝いていた。出席者は革命関係者が多く、教授、美術家、学生、中国共産党の新聞編集者もいた。9月25日は50歳の誕生日を祝うため、陽春堂で3枚の写真を撮った。裏には「海嬰と魯迅、1歳と50歳」と書いてある。

 

大陸新村9号

 大陸新村9号(現在の山陰路132弄9号)は魯迅が最後に住んだ場所で、最も落ち着いたところだ。魯迅の家にソファーがなく、すべて硬い椅子だった。休憩や執筆の時に座ったのは、古い藤椅子だった。

 上海魯迅記念館研究室主任の李浩氏によると、魯迅は上海で部屋を買う気はなく、長居しようとも思っていなかった。すこし休憩してから、どこに行くかを決めるつもりだったようだ。だが、上海に来て友人らに温かく囲まれたことで、すぐに創作や編集、文芸活動に身をおくようになる。自分を発見できたと感じ、こうして上海は結局彼にとって最後の生活の場となり、同時に、文化の最前線に推されることになったのである。

(編集:曹 俊 写真:ネットから)

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