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米軍基地前での「土人」発言に見る沖縄への構造的差別

2016年 11月 21日11:18 編集者:範易成

上海外国語大学日本文化経済学院専任教員 林工

   「土人」差別発言に沖縄市民猛反発

  今年10月、沖縄米軍基地建設を巡り、機動隊員が沖縄市民に向かって「土人」「シナ人」という差別ことばを突き立てた。琉球処分から続く日本本土の沖縄への蔑視、差別の意識が表面化したものとして、沖縄では怒りの抗議行動が繰り広げられた。

  米軍ヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設に反対する市民に、大阪府警機動隊員が「土人」「シナ人」と発言したことに抗議する緊急集会が10月29日、沖縄県東村高江の米軍北部訓練場ゲート前で開かれた。約400人が「沖縄の不条理はいつ終わるのか。県民の怒りは頂点だ」「沖縄を侮辱する暴言を許さない」と声を上げた。

  事件が起こったのは10月18日午前9時45分ごろ。芥川賞作家の目取真俊氏ら市民数人が北部訓練場ゲートそばで、沖縄防衛局が市民の出入りを防ぐため設置したフェンス越しに工事用トラックの台数を確認していると、大阪府警の機動隊員3人がフェンスから離れるよう指示。その際、機動隊員の1人が「触るなクソ。どこつかんどんじゃボケ。土人が」と発言した。また、別の隊員も「黙れ、こら、シナ人」と言い放った。 この事件について松井一郎·大阪府知事は、「土人」との発言は不適切だったとした上で「売り言葉に買い言葉で言ってしまうんでしょう。(抗議している)相手もむちゃくちゃ言っている。相手は全て許されるのか」と述べ、発言した機動隊員を擁護した。

  一方、10月19日の会見で同事件について問われた菅義偉官房長官は、「警察官が不適切な発言を行ったことは大変残念だ。今後はこのようなことがないよう警察で適切に対応するだろう」と話した。その一方で、沖縄県内では機動隊員の発言は、県民に対する潜在的な差別意識の表れとの指摘があることについて「全くないと思う」と否定した。

こうした状況に対して沖縄県議会は10月28日、臨時会を開き、東村高江で米軍ヘリパッド建設に反対する市民に対し機動隊員が「土人」などと発言したことを「県民への侮辱」として抗議する決議·意見書を賛成多数で可決した。

  同決議·意見書の裁決前には、市民の機動隊員に対する不適切な発言もあったとし、沖縄県議会自民党議員は権力側の公務員と市民とを同列に扱おうとした。これは、前述の松井大阪府知事の「喧嘩両成敗」的な発言とも相通じるものである。だが、公権力である機動隊員と一般市民とを対等な関係と考えるのには無理がある。こうした権力側が弄する詭弁は、沖縄に対する差別意識を矮小化、あるいは無化しようとするものにほかならない。

  「土人」という言葉の背景には、1879年の琉球処分から続く、1945年の沖縄戦、その後の米軍統治時代、1972年の本土復帰を経ても依然として存在し続ける本土側の沖縄に対する「植民地」意識がある。日本政府のこうした沖縄蔑視、差別はこれまでもたびたび繰り返されてきた。1903年には大阪で開かれた内国勧業博覧会で、沖縄女性2人を「展示」した「人類館事件」があり 、沖縄戦では日本兵による住民虐殺や「集団自決」(強制集団死)があった。敗戦後71年たった現在でも、在日米軍専用施設面積の約74%が国土面積わずか1%の沖縄に集中している。今回の大阪府警機動隊員の沖縄市民に対する「土人」発言は、こうした沖縄の歴史上の個々の事件と根の部分で繋がっている。

  差別発言に見る沖縄への構造的差別

  こうした侮蔑的、差別的な発言の背景には、琉球処分から始まる日本政府の統治政策が深く関連している。 日本政府は1879年、本土から遅れること8年目に、廃藩置県を琉球王府(当時、琉球藩)に要求、最終的には武威により強制的に琉球を併合した。それまでは島津(薩摩藩)が琉球王府を通じて間接的に琉球を支配しており、形式上琉球王府(藩)は日清両国に属する形をとっていた。すなわち、1879年以前において琉球王府は、文化や風俗習慣など独自の特質を持った独立した国として存在していたのである。ところが、明治維新以降の近代化において強力な中央集権体制の国家づくりに邁進する日本政府は、権力の中央集中と同質化及び天皇を中心とする階級への組み込みを推し進める。しかも沖縄においては、独自な特質を有していたということや、日本政府の直接の支配が出遅れていたといったことから、中央集権体制への組み込みは、本土以上に性急かつ強引なものとなった。1879年以降のこうした転換においては、すべて中央的なものが肯定されるものとして崇められ、一方の沖縄的なものは遅れたものとして否定された。沖縄では、沖縄的なものを自己否定し、中央との同質化をはかることがよしとされる一方、沖縄独自の文化や伝統に固執することは異端として排斥する偏見が醸成された。さらに本土の人間に対しては、生活様式や文化の質の異なりを強調し、沖縄の後進性や異国的なものをかきたてることで、沖縄への偏見や根拠のない優越感を植え付けたのである。

  このように日本政府は、文化や生活習慣などの相違を強調することで、沖縄と日本本土とを分断し、それによって本土と沖縄との間に不信と偏見を醸成させ、統治を容易にしようとした。植民地統治で常用される方法であり、統治者への批判を、分断された両者間での緊張や対立へと転換しようとしたのである。 これ以降の沖縄の歴史は、日本政府の分断による統治政策の“成功”の歴史であったと言える。いくつかの例を見てみよう。元沖縄県知事の大田昌秀氏は、元外務省官僚で評論家の佐藤優氏との対談で次のように指摘している。

  琉球処分の後、日本政府は、中国における欧米並みの貿易上の「最恵国待遇」を得んがため日清修好条約を自国に有利に改定するのと引き換えに、日本国に組み込んだばかりの沖縄の宮古と八重山の両群島を中国に割譲することを提起した。むろん、そのような政治的取引について、当の両群島住民は、何も知らされもせず、ましてや彼らの了承を得たものでもなかった。(中略)沖縄は、いわば政治経済上の質草として「取引の具」にされたのである。  

  さらに、沖縄住民の三人に一人が命を落としたとされる沖縄戦では、米軍上陸時には沖縄はすでに日本政府によって切り捨てられていた。1945年3月末、米軍は沖縄県慶良間諸島に上陸、沖縄戦が始まった。ところがこの地上戦は、沖縄を守護するための戦闘ではなく、あくまで米軍の日本本土上陸を遅らせるための「捨て石」作戦と日本政府は考えていた。というのも、当時、日本本土の防衛体制は当初計画の6割程度しか整備されておらず、米軍を一日でも長く沖縄に引き留め、本土への侵攻を遅らせる必要があった。そのことは、米軍が沖縄へと上陸する直前に裁可された『帝国陸海軍作戦計画大綱』に『皇土要域に於ける作戦の目的は、敵の進攻を破摧し皇土特に帝国本土を確保するに在り』と明示されていたことからもわかると、前出の大田氏は指摘する。さらに大田氏は、

  沖縄がまさに危機に瀕していることを知りながらも、大本営はおろか、政府や議会も、戦場と化した沖縄諸島の住民の安全を顧慮することもなく、相も変わらぬ精神主義的叱咤激励の言辞を繰り返すだけでした。(中略)大本営は、米軍が沖縄に上陸して、一か月目の五月早々にはもう沖縄のことは諦めて、沖縄戦のために配備されていた飛行機も引きあげさせるなど、もっぱら「本土決戦」だけに専念したというのです。 と強調し、こうした作戦の結末が沖縄の軍民に多大な犠牲を強いる悲惨なものになったのは必然だったと言う。

 最後に、沖縄が政治的な質草にされた驚くべき例について見てみよう。「天皇メッセージ問題」である。これは、日本の敗戦後、昭和天皇の側近となった元外交官の寺崎英成氏が、GHQ(連合国総司令部)側に接触して伝えた沖縄に関する極秘メッセージを指すものである。1979年に筑波大学助教授(当時)の進藤榮一氏が、米国の公文書館から発掘した文書で、「分割された領土」のタイトルで雑誌に発表 された。内容は以下の通りである。

  天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の考えを私に伝える目的で、時日を約束して訪問した。

  寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。天皇の見解では、そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護をあたえることになる。天皇は、そのような措置は、ロシアの脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼および左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような“事件”をひきおこすことをもおそれている日本国民のあいだで広く賛同を得るだろうと思っている。 さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島々)にたいする国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借―二十五年ないし五十年、あるいはそれ以上―の擬制にもとづくべきであると考えている。天皇によると、このような占領方法は、米国が琉球諸島にたいして永続的野心をもたないことを日本国民に納得させ、また、これにより他の諸国、とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。 〈マッカーサー司令部政治顧問シーボルト「マッカーサー元帥のための覚書(1947年9月20日)」〉

  この昭和天皇のメッセージからうかがえるのは、日本から分離され、外国軍隊が支配する軍事基地にされてしまう沖縄住民のことは天皇の脳裏にはまったくないという事実である。当時の天皇の念頭にあったのは、日本の国体(天皇)、あるいは本土の安全だけだったのだろう。しかも、これほど問題を孕んだ歴史的新事実であったにもかかわらず、雑誌発売後の反響は、新聞や学会を含めて「まったくの黙殺」(進藤榮一氏)だったという。日本ではタブーに近い天皇に直接関連する事実だったとはいえ、日本のメディアや学者の劣化という側面も照らし出すことになった。

  国連の勧告にも差別認めぬ日本政府 歴史をたどることで見えてくるのは、沖縄が偏見や差別を受け続けてきたという動かしがたい事実だ。少なくともそのことを世界はすでに認め、憂いている。 2010年3月、国連人種差別撤廃委員会は沖縄に関して、これまで以上に踏み込んだ見解を採択した。「沖縄への米軍基地の不均衡な集中は現代的な形の人種差別だ。沖縄の人々が被っている根強い差別に懸念を表明する」として、沖縄の人々の権利保護·促進や差別監視のために、沖縄の代表者と幅広く協議するよう日本政府に勧告を行ったのである。

  2012年には、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設や東村高江の米軍ヘリパッド建設について、「沖縄の人々を関与させるための明確な措置が取られていない」として、懸念を表明した。その上で、人権侵害問題の観点から、計画の現状や地元住民の権利を守る具体策について説明を求める異例の質問状を日本政府に送付した。ところが、日本政府は「沖縄県に居住する人あるいは沖縄県の出身者は日本民族」なので、人種差別撤廃条約の対象外だとして、国連からの質問状や勧告等にも取り合う姿勢を見せていない。

だが、国連は2008年に、琉球民族を国内法下で先住民族と公式に認め、文化遺産や伝統生活様式を保護·促進するよう勧告している。その後も2009年にはユネスコ(国連教育科学文化機構)が沖縄固有の民族性を認め、歴史、文化、伝統、琉球語の保護を求めた。

2014年7月には人権委員会 が、同年8月には人種差別撤廃委員会がそれぞれ、琉球·沖縄人は先住民族だとして「権利の保護」を日本政府に勧告した。

  世界が認め、あるいは懸念を表明してきた日本政府による沖縄差別の根は、長い歴史の堆積とともに構造的に形成されてきたものであるだけに深い。しかし、沖縄における差別発言が深刻な問題であるのは、なによりも日本政府がその構造的な差別の存在を認めず、議論を成立させようとしない点にある。 「人種差別的な中傷は、沖縄の人々に対して偏見を持っているだけではなく、(沖縄が置かれている状況に関する)合理的な議論の欠如をも示したものだ」と機動隊員の差別発言について、ノルウェー出身の政治学者ヨハン·ガルトゥング博士 は指摘する。  

  差別のことばは、人を殺す本質的な憎悪を抱え持っている。だからこそ、差別や偏見の先にあるのは殺戮であり戦争であるという事実を、日本政府と日本人はいま一度、歴史を鑑にじっくり考えてみる必要がある。