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李春利:米国大統領選観戦記

2016年 5月 23日15:22 提供:東方ネット 編集者:兪静斐

  (愛知大学経済学教授、日本華人教授会議代表、全日本華僑華人連合会副会長) 

(写真:反ブッシュ50万人大デモ@NewYork, 2004年8月29日)

アメリカ大統領選のジンクス

 50年近い間、アメリカ大統領選挙の際に、民主党にはジンクスがあった。民主党大統領候補者はアメリカ南部出身でなければ本選挙に勝てないというジンクスである。第35代大統領ジョン·F·ケネディ(1961~63年)以来、それが立証されてきた(表参照)。

 第36代大統領、リンドン·ジョンソン(1963~69年)、南部テキサス州選出

 第39代大統領、ジミー·カーター(1977~81年)、南部ジョージア州選出

 第42代大統領、ビル·クリントン(1993~2001年)、南部アーカンソー州選出

 それにケネディの前任者である第33代大統領ハリー·トルーマン(1945~53年、南部ミズーリ州選出)を加えれば、第二次世界大戦後民主党選出のアメリカ大統領はいかに南部出身者が多いかがわかる。

 一方、2004年大統領選では、北部マサチューセッツ州選出の民主党上院議員ジョン·ケリーが現職大統領のジョージ·W·ブッシュに挑戦したが、失敗。 

(写真:現存のアメリカ大統領たち中華網)

 1988年大統領選では、マサチューセッツ州知事マイケル·デュカキスが現職副大統領のジョージ·H·ブッシュに大差で敗北。

 1984年大統領選では、北部ミネソタ州選出のカーター政権の民主党副大統領であったフリッツ·モンデールは、現職大統領のロナルド·レーガンと競ったが、歴史的大敗を喫する。

 1972年大統領選では、北部サウスダコタ州選出の民主党上院議員、ジョージ·マクガバンは現職大統領のリチャード·ニクソンに史上2番目の大差で敗北を喫した。

 1968年大統領選では、ミネソタ州選出のジョンソン政権の副大統領ヒューバート·ハンフリーは民主党の大統領候補に指名されたが、本選挙で共和党のリチャード·ニクソンに惜敗。

 1952年と56年の大統領選では、イリノイ州知事であったアドレー·スティーブンソンは2度にわたり、共和党候補のドワイト·アイゼンハワー(アイク)に挑んだが、いずれも大差で敗北。

 かくして、第二次世界大戦後のアメリカ大統領選挙の中で、ケネディを除き、北部出身の民主党候補のほとんどが敗北を喫したのである。

  出所:ウィキペディア「アメリカ合衆国大統領選挙」http://ja.wikipedia.org/wiki

 南部出身者で敗北した例外はただ1つ。テネシー州選出のクリントン政権の現職副大統領アル·ゴアである。2000年大統領選では、ゴアは共和党のジョージ·W·ブッシュ候補と激戦を繰り広げ、大接戦の末、一般投票ではブッシュを54万3895票も上回ったものの、大統領選挙人投票ではフロリダ州において、わずか537票差でブッシュに逆転され、最終的には全国で266対271の僅差で敗北している。

 保守勢力が根強いとされるアメリカ南部で、どのぐらい支持票を集められるかが、民主党大統領候補にとってはいつも最大の試練なのである。

 2004年アメリカ大統領選@ボストン

 2004年大統領選では、一部にゴアを推す動きがあったものの結局は出馬せず、有力候補とされるハワード·ディーンの支持にまわった。2007年、講演や「不都合な真実」での環境啓蒙活動が評価され、ゴアはIPCCと共にノーベル平和賞を受賞したことが記憶に新しい。

 2004年7月、ボストン市で大統領候補を決める民主党全国大会(Democratic National Convention, DNC)が行なわれた。ちょうどその年の4月から私はサバティカルで、1年間ハーバード大学で在外研究をすることになり、ボストンの隣町であるマサチューセッツ州ケンブリッチ市(Cambridge)に住んでいた。

 7月下旬から、約3万5千人が全米からボストンに集まり、民主党代議員たちが続々とこの地にやってきた。各種選挙キャンペ-ンが行われ、私もいわゆるアメリカ型民主主義に対する好奇心から各種イベントに参加した。 

(写真:@民主党大会,Boston,04年7月27日、筆者撮影)

 最初に参加したのはハワード·ディーン候補の演説会だった。彼はヴァーモント州知事6期12年にわたり務め、04年民主党大統領予備選の序盤では、多くの世論調査で良い結果を出し、特に資金調達の面でもリードし、フロント·ランナーとして先行した有力候補と目されていた。

 “In the United States, money talks!”

 かなり前から米国人先生から聞いたこの名言を思い出した。大統領選もその例外ではなく、集金力の差が勝負を決する決定的な要因の一つである。ディーンの資金調達が好調なのはインターネットを選挙運動に用いる革新的な手法によるところが大きかった。彼は特にブログを活用し、労働組合や企業などの大口の献金に頼らず、様々な個人から選挙資金を調達した。インターネットを利用した選挙運動は、彼を強く支持する草の根有権者を生み出した。

 草の根中心の資金調達とインターネット活用という手法は、2008年大統領選におけるオバマの選挙戦に受け継がれた。大統領の座を射止めたオバマの歴史的な勝利は、彼のカリスマ性と卓越した演説力のみならず、その選挙資金の調達手法の革新と草の根の支持に依存するところも大きい。コミュニティー·オルガナイザーなどとよばれる1300万人のボランティア部隊は「オバマの近衛隊」ともよばれ、オバマ旋風の原動力であり、集金マシーンでもあった。

 ディーンはその分野の先駆者である。彼はその後の民主党大統領予備選では、本命のマサチューセッツ州選出の上院議員ジョン·ケリーとノースカロライナ州選出のジョン·エドワーズに負けてしまった。彼は2008年の大統領選には出馬せず、現在は合衆国国務長官である。

 マイケル·ムーアの執念と50万人反ブッシュ大デモ@NY  

(写真:マイケル·ムーア@民主党大会,Boston, 2004年7月27日,筆者撮影)

  ボストンで聞いたもう一つの講演は、有名なドキュメンタリー映画『華氏911』(Fahrenheit 9/11)の監督として名を馳せたマイケル·ムーア(Michael Moore)であった。2000年大統領選でゴアの支持者だったムーアは、打倒ブッシュに執念を燃やしていた。会場で接した彼の勇猛な風貌と豪快な笑い声は『三国志』の中で曹操を憎み続けた猛将·張飛を思い出させる。

(写真:反ブッシュ50万人大デモ@New York, 2004年8月29日,筆者撮影)

 『華氏911』は、ムーアが2004年に発表した、アメリカ同時多発テロ事件へのブッシュ政権の対応を批判するドキュメンタリー映画であり、2004年大統領選ではブッシュの大統領再選を阻止する目的で公開された。いわゆるネガティブ·キャンペーンの一環でもある。この映画は01年9月11日の同時多発テロ事件をめぐり、ブッシュとビンラディン家を含むサウジアラビア王族との密接な関係を描き、ブッシュ政権を批判する内容となっている。04年、カンヌ国際映画祭で最高賞パルム·ドールを受賞し、各国でヒットとなる。日本でも全国で公開された。

 その後、ムーアはブッシュ批判のボルテージを上げていく。そのピークは04年8月29日にニューヨークで行われた反ブッシュ50万人大デモ(Dump Bush’s demonstration)である。5番街でスタートした50万人大行進の先頭に、ムーアはイラク反戦のために柩を担いだ行列の前頭に立ち、1960年代のベトナム反戦運動を呼び起こすほど迫力満点だった。

 その日、私はちょうどワシントンからニューヨーク経由でボストンに戻る途中だった。偶然ながら、ニューヨークでこの世紀の大行進に遭遇した。昼食後、日曜日なのに繁華街の5番街が通行止めになったことに気がついたものの、まさか50万人の大デモとは想像もつかなかった。後で知ったのだが、今回のデモは情報化時代にふさわしく、インターネットや携帯メールを通じて呼びかけた結果、数百のNPOやNGO、各種政治団体、市民団体がいわゆる反ブッシュ·イラク反戦の連合体が作りあげられ、雪だるま式にデモ隊が膨れあがっていった。

 なかでも特に印象的なのは、若者の参加が多いことだった。日本とは違って、若者たちの政治への参加意識が強く、進んで選挙ボランティアをする人が多い。ボストン民主党大会の現場で実際目撃したことだが、ある地方からの参加者が「フィラデルフィアで選挙キャンペ-ンを行うので、往復交通費だけ提供するから、ボランティアを募集している」と呼びかけたところ、さっそく多くの若者たちが集まってきた。草の根民主主義の凄さを感じた瞬間だった。

 バラク·オバマの初舞台@ボストン

 民主党全国大会2日目の7月27日、一人の若い政治家が全米の注目を集めた。大統領選と同時に行われる上院議員選挙に出馬予定のイリノイ州からのバラク·オバマだった。聞きなれないこの若者の登場に会場はざわめいていた。彼は当時まだ43歳だった。

 大会のメイン会場であるフリートセンターには入場できないものの、ボストンにおける民主党支持派の総本山であるハーバード大学ケネディ行政大学院の大ホールで大会の様子が一部始終ビッグスクリーンで生中継されていた。

 だが、そこにも大きな看板を掲げた共和党支持者がいた。看板には「ケリーは最高司令官にふさわしくない」(Kerry is not a commander)と書かれており、まわりの民主党支持者からの罵声を浴びながら看板をしっかりと持ち続けている。単騎、敵地に突入したこの勇者には、思わず脱帽した。軍の指揮ができないという意味の、民主党大統領候補に付きまとうこの耳痛い言葉は、共和党陣営の作戦であると同時に、実は民主党のアキレス腱でもあったのだ。

 ハーバード大学では、私は経済学部とビジネススクール両方の授業を聞いていたので、家からビジネススクールに行く途中、必ずケネディスクールの正門前を通る。そこに選挙期間中にこの看板を掲げて一人突っ立っているお年寄りをしばしば見かけた。通りかかる人は、彼に罵声を浴びせる。それをまったく気にせず、まるで托鉢の高僧のようにただそこに突っ立ったまま。アメリカ型民主主義に秘められた情熱と社会的公正の一面を垣間見たような気がした。

 ジョン·ケネディの名前が冠されているだけに、重要なイベントにはその弟であるエドワーズ·ケネディ上院議員がよく出席していた。また、ジョン·F·ケネディ·ジュニア·フォーラムと名づけられた公開講演会では、外国の元首や大臣など世界中の著名人がよく講演していた。

(写真:ケネディ家の支持を取り付けたオバマとエドワーズ·ケネディ上院議員、ウィキペディア)

 例えば、現台湾“総統”である馬英九の演説をそこで聞いたことがある。馬英九もオバマ夫妻と同じくハーバード大学ロースクールの出身である。ロースクールは自分の家から歩いて5分もかからないところにあったので、そこの広々とした図書館を愛用していた。

 オバマに運命の転機が訪れたのは民主党大会の一ヶ月前だった。イリノイ州を遊説中に、民主党大統領候補ケリーの選対本部長から電話がかかってきた。彼らはカリスマ性があって感動的な演説ができる人物を探していた。電話を切った後、オバマは興奮気味に言った。

 「自分のこれまでの人生を壮大なアメリカの物語の一部として話したいんだ。」

 かくして、7月27日の夜、政界では無名に近いオバマは、民主党全国大会のメインの基調演説者になった。文字通りのダークホースだった。

 「この舞台に立てたことは名誉です。普通ではありえないことです。

 私の父は、ケニアの小さな村から来た留学生でした。母はカンサスの町で生まれました。」

 母親は中西部で育った。彼女にとってオバマの父は予想外の世界から現れてきた人物だった。彼女はハワイ大学のロシア語のクラスでアフリカから来た留学生と出会った。

 「両親は困難の多い愛を貫き、この国から与える可能性を信じました。」

 二人はすぐに結婚した。8月にオバマが生まれた。1961年のことである。黒人の父バラク·オバマ·シニアと白人の母アンの物語である。

 ストーリー性と民族融和、国民融和はオバマの一貫した政治戦略である。彼はこの初舞台の時から自分のユニークさとアイデンティティを十分に意識していた。1995年出版の自伝“Dreams from My Father”(和訳『マイ·ドリーム』)の中でオバマは次のように書いている。

 「(当時)白人と黒人の結婚はアメリカの半数以上の州ではまだ重罪だった。南部だったら、母をじっと見つめていたというだけで、父は縛り首になっていただろう。」

 時代背景はそのとおりである。1960年代の公民権運動は、20万人の参加者を集めた1963年8月に行われたワシントン大行進で最高潮に達した。この時、マーティン·ルーサー·キング牧師がリンカーン記念堂の前で“I Have a Dream”という歴史に残る名演説を行い、人種差別の撤廃を訴え、幅広い共感を呼んだ。公民権運動の結果、1964年7月に民主党のジョンソン大統領が公民権法(Civil Rights Act)に署名した。これにより、建国以来200年近い間、アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。

 オバマが3歳の時だった。彼は語り続ける。

 「私の人生はアメリカの壮大な物語の一部であり、私は先人たちに借りがあります。ほかの国だったら、私はここまで来ることができません。」

 「全ての人は生まれながらにして平等であり、自由、そして幸福の追求する権利を持つ」という独立宣言を行った国、アメリカ合衆国だからこそ、自分のような人生があり得たのだ、と彼は述べた。

 ざわめいた会場は静まり返った。

 「私はここで言いたい。リベラルなアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。黒人のアメリカも白人のアメリカも、ラテン系のアメリカもアジア系のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。」(I say to them tonight, there is not a liberal America and a conservative America —There is the United States of America. There is not a black America and a white America and Latino America and Asian America — there's the United States of America.)

  

(写真:2004年11月2日、妻ミシェル、娘のマリア、サシャと一緒に上院選の結果を待つオバマ候補@シカゴ【AFP=時事】)

 「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ。」「私たちは皆、星条旗に忠誠を誓い、ともにアメリカ合衆国を守っているのです。」(We are one people, all of us pledging allegiance to the stars and stripes, all of us defending the United States of America.)

 会場は沸き返っていた。拍手喝采が鳴りやまなかった。泣いていた人もいた。妻のミシェルも涙を流していた。歴史が作られる瞬間だった。

 オバマは国民にメッセージを投げかけた。

 われわれは共和党や民主党の一歩先を行こう。私はイデオロギーだけでなく、従来あった人種的な分断を乗り越えてみせる。そして自らのメッセージを体現してみせるのだ。

 黒人政治家として初の民主党大統領候補になったジェシー·ジャクソンは立ち上がって拍手した。彼は公民権法施行後に代表的な黒人活動家となり、キング牧師らと親交を持った。

 ヒラリー·クリントンも立ち上がって拍手した。この時、彼女は4年後の民主党大統領候補選でオバマと死闘を繰り広げることを予想したのだろうか。この大会では、ヒラリーは公式な演説者としてではなく、夫のビル·クリントン前大統領を紹介する役柄として登壇した。

 会場にいるみんなが立ち上がって拍手と喝采を送り続けた。その模様が全米に広く中継されるとともに、オバマ人気が一夜にして一気に高まった。

 「彼は出世する。タイガー·ウッズのように…」「約束も分断も超越する人物」

 「彼は初の黒人大統領になれる人物」

 全米のマスコミはこの希望の新星の誕生に祝福を送り続けた。

 エピローグ:オバマ、その後の物語

 7月28日、ケリーとエドワーズは正式に民主党正副大統領候補としての指名を受けた。両候補は現職の共和党大統領ジョージ·W·ブッシュと本選挙を戦い、僅差ながら敗北した。

 2004年大統領選挙によって米国民が二派に分裂されてしまった。ケリーの落選により落胆する国民が多く、抗議デモも起こるなど世論の沈静化を図ることが最大の国内問題となった。国内世論はイラク戦争により失墜した米国の信頼回復に向けた政策転換が求められていた。

 2007年2月、オバマ上院議員は地元であるイリノイ州の州都のスプリングフィールドにて2008年アメリカ大統領選に向けて正式な立候補宣言を行った。スプリングフィールドはかつてイリノイ州議会議員を4期務め、さらに第16代アメリカ大統領に選出されたエイブラハム·リンカーン大統領ゆかりの地であり、彼の政治家としての人生の出発点であった。

 だが、大統領に就任した1861年に、奴隷制廃止に異を唱えて独立宣言をした南部連合と合衆国の間で南北戦争が勃発し、国家分裂の危機を迎えた。これを受けて翌年、リンカーン大統領によって有名な奴隷解放宣言が発表され、アメリカにおける奴隷制は順次廃止され、黒人は奴隷のくびきからは脱していた。オバマ誕生からちょうど100年前の出来事である。

 周知のとおり、1865年に南北戦争は合衆国の勝利で終結し、南部連合は解体された。だが、法の上での黒人や先住民などに対する人種差別はその後も100年以上に渡って続くことになり、奴隷解放の父とよばれたリンカーン自身も戦争終結直後に暗殺されてしまう。

 2009年はリンカーン生誕200年にあたる節目の年である。1776年に独立宣言が発表され、アメリカ合衆国が誕生して以来、233年目にして初のアフリカ系アメリカ人大統領バラク·オバマが誕生する。

 1月17日には、奴隷解放を宣言したリンカーン大統領の1861年の就任時の故事に倣い、オバマはフィラデルフィアから列車で首都ワシントン入りする。

 そして、大統領就任式前日の19日はキング牧師の生誕を記念する国民的祝日Martin Luther King, Jr. Dayである。その前日に、オバマはかつてアメリカの人種差別撤廃への第一歩となったキング牧師による“I Have a Dream”の歴史的な演説が行われた場所、リンカーン記念堂前で「私たちは1つ」をテーマに50万人が参加するコンサートを開く。故キング牧師の息子も参加。

  (写真:リンカーンが1861年の就任式に使った聖書で就任の宣誓が行われた〔AP Photo〕

 大統領就任式の1月20日は、暦のうえでは大寒の日、その直後に旧正月の元日を迎える。丑年生まれの47歳のオバマ大統領は2009年、東洋流にいえば、4回目の厄年を迎えることになる。

 大統領選開票の日、44代目のアメリカ合衆国大統領に選ばれたオバマは、勝利宣言でこう語った。

 「米国はすべてが可能なところだということをまだ疑い、我々の建国者の夢が現在でも生き続けていることをまだいぶかしく思い、民主主義の力にまだ疑問を抱いている人がいるとしたら、今夜が答えだ。」

 「米国の本当の才能は変化できることだ。合衆国は完ぺきになれる。これまで達成したことは、明日達成しなければならないことへの希望を与える。

 この選挙は初物づくしだった。何世代にも渡り語り継がれるだろう。でも、今夜私の心にあるのはアトランタで1票を投じた女性のことだ。彼女は今日投票した何百万人もの人と同様に、列に並び、意見を表明した。ただ1つ違うのは、アン·ニクソン·クーパーが106歳だということだ。

 彼女が生まれたのは奴隷制度があった時代のすぐ後だ。道路に車はなく、空に飛行機はなかった時代だ。彼女のような人は2つの理由で選挙に参加できなかった。1つは女性であること。もう1つは肌の色によってだ。今夜、私は彼女が見てきた今世紀のすべての出来事に思いをはせる。心痛と希望、苦悩と前進、“できない”と言われた時代と、それでも信念を貫いた人。Yes, we can.

 大草原地帯が砂嵐の被害を受け失望が広がった時も、不況が国土を駆け巡った時も、彼女は国がニューディール政策と新規雇用と公の精神で恐怖を克服するのを目撃した。Yes, we can.」

 そして、2009年1月20日、オバマは大統領就任式でこう語った。

 「アメリカよ。危機に直面した今、この困難の冬に、我々はこの永遠の言葉を思い出そうではないか。希望と善によって、氷のように冷たい流れにもう一度勇敢に立ち向かい、いかなる嵐が訪れようとも耐えようではないか。」

 大寒波と百年に一度ともいわれる金融危機に襲われた2009年のアメリカ、バラク·オバマは果たしてアメリカ合衆国の国民融和の象徴になるのだろうか。