Home > Contents > 特産物レコメンド  > 長崎県「孫文 梅屋庄吉」塾(高校部門)が武漢で開催
長崎県「孫文 梅屋庄吉」塾(高校部門)が武漢で開催
2014年 7月 29日13:16 / 提供:東方ネット

 日本長崎県政府はこのほど、(中国側の会社)と共に日中の青少年を対象に、日中交流のプラットフォームの設立、国際理解や日中友好を深まることを目的に、湖北省の武漢市で「孫文?梅屋庄吉」塾を開いた。武漢市からの高校生19名と日本長崎県からの高校生19名(合わせて38名)は当イベントに参加した。情報によると、今回の「孫文?梅屋庄吉」塾は「高校部門」と「一般部門」の二つに分けられている。その中、「高校部門」は今回の「孫文?梅屋庄吉」塾のほか、8月中武漢市の高校生は交流するために長崎県に訪れる予定。一方「一般部門」では、長崎県が冬休み中に友好都市である福建省、上海市、湖北省で20~30歳の若者を、日中の若者の間の文化交流を促進するために長崎まで招待する見込み。

 上海外国語大学で中国語の研修を行われていた19名の長崎県高校生が26日、武漢の洪山高校に到着し、在校生の熱烈な歓迎を受けた。その後、一対一で19名の武漢高校生のお宅でホームステイを体験した。27日午前中、19名の長崎県高校生は掛け合いの高校生と一緒に、武漢辛亥革命博物館で開かれた「日中交流情報交換会」に参加した。湖北省人民対外友好協会の呉建民副会長、辛亥革命博物館の姚明修館長、長崎県文化振興課長の中村哲氏と長崎県上海事務所の宮崎大誠所長が交換会に出席した。

 交換会では、日中ホームステイ家庭の38名高校生は2人一組というスタイルで、お互い協力し合い、各自興味のあることをテーマに3分の規定時間内でプレゼンテーションをしてくれた。また、日中高校生は交換会で孫文と梅屋庄吉の実話を聞き、当時のような激動とした時代でも梅屋庄吉夫妻は孫文氏が仕切っていた革命活動に全力でサポートし続け、志を変えることはなかったことを改めて認識した。日中の学生は紹介を通じ、近代中国民主革命先駆けとしての孫文氏は、その革命生涯の中梅屋庄吉氏とその妻である徳子さんの私心のない援助を受けていたことなどを理解した。学生たちはこのような人にあまり知られていない歴史の勉強を通じ、日中両国の世代友好及び、両国の間の青年文化交流を強まることの重要性を改めて認識した。更に、今の日中両国の若輩は革命先輩のような国境を越えた友情を受け継ぐことを強く望んでいる。相互の理解の深め、将来両国の友好関係の築きに積極的な貢献をしたいと語ってくれた。交換会終了後、日中高校生は武漢辛亥革命博物館を見学した。

 湖北省は2011年長崎県と友好交流関係を結んで以来、文化、体育など諸方面で青少年を中心に様々な交流イベントを実施してきた。青少年交流イベントの重要な一環として、今回の「孫文?梅屋庄吉」塾は今年で第二回目となる。このようなイベントを実施する目的は、日中の青少年に中国民主革命先駆である孫文氏と全力的にその革命生涯に物質的及び、精神的な支えをしていた長崎県の実業家梅屋庄吉との間の厚い友情を理解し、二人のような国境を越えた厚い友情を受け継ぐと同時に、将来日中交流に貢献してくれる人材を育成することである。

長崎県での大村公園

長崎市で視察する中日友好委員会会員

 日本長崎県は九州の最西部に位置し、中国上海からの距離がたっだ800キロで、中国から最も近い日本とも言われている。長崎は日本がまだ鎖国していた時代でも有数の対外港の中で最も大きく、古くから中国と親密に貿易や文化の交流を保ってきた。 長崎平戸生まれの明の末の英雄である鄭成功や、孫文の辛亥革命を支援した長崎人である梅屋庄吉などは、皆日中の友好交流の歴史に名を残した人物である。長崎県は中国と文化や、スポーツ、経済などの領域で一貫として悠久で、深い友好交流をキープしてきた。早くも1972年に、当時の長崎県知事はかつて県議会で「中国は一つだけ」という政治的主張を表明し、その後議会は「日中国交の回復」と「貿易促進」という要求に決議をし、同年の9月に日中国交は正常化に回復した。

 現在、長崎県内に多くの華人や華僑が生活している。中華街、孔子廟、長崎ランタンフェスティバルなど中国にかかわりのあるモノも多く残っている。古今を通じて、濃厚な中国情調は長崎の民俗山水に染み込んでいる。長崎県は中国の一衣帯水の隣国だけでなく、日中両国の交流の窓口として、両国の友好関係を築くためにずっと努力してきた。

梅屋庄吉を訪ねる唐家セン氏

(編集z)

関連記事