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中日新聞・東京新聞論説委員(元上海特派員)垂水健一
(1)新聞記者として、初めて上海を取材してからもう30年にもなる。この間、1991年8月から2年、特派員として上海で暮らしたこともある。いまは論説委員として東京から中国を見ている。ときどき上海にも足を運ぶが、来るたびに上海は大きな変化を遂げている。2004年3月末に上海を訪れたが、ただ発展するだけでなく、都市としての風格も増してきた。変貌を続ける上海に深い感慨を覚える。
私が最初に上海にやってきたのは、1973年のことである。「東海青年の船」という、日本の東海地方の青年男女の団体の訪中に同行してのことであった。船は朝があけたばかりの黄浦江に入ったが、まだ文化大革命の最中である。どこかの船のマストにでも取り付けられているのだろうか、音量の大きなスピーカーから「毛主席万歳!」などのスローガンを繰りかえす女性の高い声があたり一帯に響き渡って、街には張り詰めた空気が流れていた。
しかし緊張した空気とは対象的に街には活気がなかった。外灘や南京路をはじめ街の主だったビルは工場や住宅、ところによって官庁の出先になっているところもあって雑然としていた。私が想像していた「東洋一の商業都市」や「魔都・上海」の面影はどこにもなかった。それから何度も上海を訪れる機会はあった。1978年から「改革・開放」が動き出したが、注目されたのは深せんや珠海のなどの経済特区や首都としての機能を整える北京の姿であった。上海の発展は大都市には似つかわしくなく遅れていた。
(2) 上海が鮮やかに近代都市に変遷するきっかけになったのは90年に始まった「浦東開発」であり、それを後押しした92年のケ小平氏の「南方講話」だった。
ちょうどそのころ私は上海にいた。浦東開発で上海に中央の資金が投入され、市場経済の導入にためらうなという「南方講話」もともと商才に長けた上海人たちのやる気をかきたてたようだった。
ことし3月に上海にやってきて、軽軌に乗って街を見た。軽軌の沿線に高層マンションの工事が目立つ。久しぶりに会った友人の中には既にマンションを手に入れている人もいるし、「頭金のメドがついた。来年はマンションを買います」と夢を語る人もいた。73年にオフィスビルを仕切って、薄暗い部屋に住んでいる人を見たころに比べ大変な変化である。
今回の宿舎は新錦江飯店だった。ホテルの前の住宅地が再開発で整地されていた。ここがどう変化するのか興味をそそられた。朝食にお粥を食べようと、24時間営業しているホテル近くの食堂に午前7時ごろ行った。最初の日は、深夜に及んだ会合の流れのような若い男女が10人ほど、徹夜でも結論が出なかったのか、議論しながら食事をしていた。次の日は中年の男女5人がテーブルの上にビール瓶を並べて、仕事の話をしていた。上海が眠らない商業の街に生まれ変わったことを実感させられた。
(3) 「旗袍(チーパオ=チャイナドレス)の値段を見てきてほしい」と、日本で頼まれていたので、ホテル近くの店を数軒のぞいた。旗袍といえば赤い、中華料理店のウエートレスが着るものくらいしか認識のなかった私には驚きだった。日本の和服のような手描きの美しいものや複雑な織りの生地などを使った高級な旗袍が並んでいる。値段は千元などというのは珍しくはなく、1万元前後のものもあった。それを買う人も少なくない。
上海の街に次々に建つビルやマンションも驚きだが、24時間眠らないで仕事する人が増え始めた上海。上海の発展は「点」から「面」に広がっている。そして食べ物も着るものも豊かになる上海。
中国の街の中では私の一番縁が深い上海がどんどん様変わりしてゆく。いつか、街も人々の生活も東京や大阪を抜いてゆくことがあるのだろうか。在留の日本人が2万人を超えたという。日本と上海のかかわりあいでも、また新しい局面が展開するのだろう。
上海はそれほど遠いところではない。これからも、1年に1度くらいは足を運んで、絶え間なく変貌する上海を「観察」してゆきたいと思う。
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