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中国における日本の本当の存在 (六)
2008 -5 - 17 15:44

変化 、変化

 中国と日本の交流はいつも容易ではない。20世紀初め、日本を一番反対した中国人は、初期の中国人留学生であった。魯迅が生涯の最後で訪問したのは日本人青年の家だった。最後の筆跡は日本語で書いた書き付けで、亡くなったベッドの前にいたのは、また3人の日本人だったが、これまで専門で日本を論述した文章を一本も残していない。周作人氏は日本が好きだが、『日本観察の4』で日本人を厳しく非難した。成彷吾氏は日本へ11年間留学したが、唯一日本に関係した『東京』の中で、「もし私が日本が好きなら、それは私が日本の地震と火災が好きなためだ」と、驚くようなことを書いていた。

 中国における日本の存在は、かつてねじ曲がった幻像だった。山口百恵のドラマが中国で放送される前、人々が「理解」していた日本人の姿は、戦争映画の中での愚かでおかしい「豚みたいな小隊長」だった。1980年代の香港テレビドラマ『霍元甲』の中では、陰謀によって、無能な日本人はやっと中華英雄を粉砕したのである。さらに20世紀初めには、中国の近代的な義侠小説の開祖である平江不肖生が、『日本留学外史』の中で、日本を非難した言葉は、下品極まると言える――例えば「日本の女すべてと遊ぶ」という言い方もあった。

 日本政府と民間団体は35年間、中日の民間交流に力を尽くしたが、効果を得るまで、さらに長い時間が必要である。

 囲碁の聶衛平氏は70回以上日本へ行ったことがあり、日本の友達が多くできた。日本料理が好きで、1回に5皿の刺身を食べ、日本に「特殊な感情」を持った。反日に賛成しない。しかし、今なお日本が中国に侵略したことは許さず、「あれは大罪だ」と言っている。息子の孔令文さんが小林清芽さんと結婚した時、息子の嫁の父は聶氏の古い友人の棋士の小林覚氏だとしても、「残念なことに、娶ったのは中国の女ではなかった」と言った。聶氏は永遠に忘れない。身内の2人が日本軍に殺されたからだ。

 両国は双方の立場を結びつけようと努力してきた。2006年11月、中日の外務大臣はAPEC会議で、双方が10人の学者を派遣して両国の歴史を共に研究することを決めた。しかし、米国の学者はこれに対して、楽観的には見ていない。中国の政府直系のような考えを持つ学者が、日本の右翼的な学者と一緒に座っても、話がうまく合うはずがない。

 今のところ、情況はまた良くなった。2008年5月4日、胡錦涛氏が日本を訪問する前、日本の北京駐在メディア16社の共同取材を受け、取材の中で、ふだんは外国人記者に取材の機会を少ししか与えず、厳格に自分の大衆イメージをコントロールしている指導者は、かつての日本訪問について語った。                             

(実習編集 宣少一)

 
 
 

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