90年代の留学ブームに乗って日本へ行った。日本の一流大学・慶応大学に入学し、そして三和銀行(現在は東京三菱UFJグループ)に就職した。半年後、会社に派遣され中国に戻った。数年後、いいチャンスに会い、富士フイルム(中国)の副社長となった。この超人的な女性に話を聞いた。
――留学についてどう考えていますか?なぜ留学を決めましたか?
83年、私は国立大学を卒業して国営企業に勤め始めました。中国の改革開放に伴って、85年に私は日系企業に入りました。その時は日本語がぜんぜんできませんので、英語で仕事をするしかなかったのです。87年、業務トレーニングを受けに日本へ派遣されました。その結果、日本と中国の格差を見ました。「こんなすごい経済発展の背後には何か勉強に値するところがあるはずだ」と思って、91年の留学ブームに乗って、日本へ行きました。
――日本の大学生活はどうでしょうか?
93年に、慶應大学の法学部に入りました。日本の大学で受けた知識はたくさんあり、内容もかなり豊かだと思います。専門知識のほかに、私は各種の媒体を通して他の知識もたくさん勉強しました。例えば、慶應大学のハードウェアがとても優れていたので、他人より早くインターネットに触れました。そこで豊富な情報を獲得することもできました。大学では日本語を習っただけでなく、新たな考え方と情報に対する敏感さも身に付けました。
――卒業してから、どんな会社に就職しましたか?
息子と夫は上海に残っていますし、日本では女性は出世しにくいから、仕事で中国へ帰れるというような仕事をやればいいと思っていました。幸いことに、私は三和銀行(今の東京三菱UFJグループ)に採用され、会社のグローバル・スタッフとなりました。97年10月に貸付審査に任せられ、上海支店に派遣されました。その時、中国の同僚の顔を見て、「この女は本社から来たんだ。われわれとはまるで別の人間なのだ。彼女の腕を見せてもらおう」というような感じがしました。だから、私は実績で自分の実力を見せようと決心して、日本で習った勤務態度によって真面目に働き始めました。半年後、前例のないマネージャーに昇進しました。同僚も当たり前だと思い、私を認めて、積極的に仕事に協力してくれたのです。
――今の仕事について、詳しく話してくれますか?
2001年、私は今の富士フイルム(中国)投資有限会社に入りました。その時、弊社は上海で新しい投資会社を設立して中国進出を図っていました。初めは、会社には日本人、運転手と私の三人だけでしたから、何でも自分でやるしかありません。人事総務、財務や人材募集はすべて自分でやらなければならない。そのおかげで、ずいぶん成長してきました。今、販売、マーケティング以外、会社のすべての管理部門を統括しています。
――女性管理者という立場は、どのようなメリットがありますか?
キャラクターでいえば、人と正面にぶつかることをしない。女性管理者として、やさしさ、物事に柔軟に対応し、協調性があるのは最大のメリットだと思います。
――留学生活から、勉強したことは何でしょうか?
もし私は留学に行かなかったなら、今の私はないだろうと思っています。上海を出て、もう一つの世界に身を置くと、必ず何か新しいものを経験します。しかし、ただ外国の大学の学歴証明書を振り回して高い給料を求めることもいけません。大切なのは、会社でどのように習った知識を生かせばいいか、どんな役に立てるかを考えるべきだということです。
徐瑞馥の履歴書
1962年 北京生まれ
1991年 日本へ留学
1993年
日本慶應大学の法学部入学
1997年
三和銀行(現・東京三菱UFJグループ)
1997年10月 三和銀行上海支店
2001年7月
富士フイルム(中国)投資有限公司 管理部長
2004年10月 同社副社長に昇格
(曹 俊 写真も)
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