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上海嘉定紫藤園の創始者――藤本道生

2019年 7月 11日10:14 提供:東方網 編集者:範易成

上海嘉定紫藤園の創始者――藤本道生

 ここ数年、春になると、上海では嘉定紫藤園のフジと顧村公園の桜が定番の観覧名所として人々の話題にのぼる。家族と一緒に美しい花を見る時、嘉定紫藤園のフジの裏に、30年に渡る中日友好にかかわる物語があることを知る人は少ないだろう。

嘉定紫藤園

  フジの香りが溢れる嘉定紫藤園をある老人が散歩している。花々を見る顔はまるで自分の子を見守るかのようだ。彼の名前は藤本道生。中日友好事業に30年間取り組んできた。この上海嘉定紫藤園は彼の努力の結晶である。

  上海で商売をする人々のために上海と縁を結ぶ

  藤本道生は1932年1月23日に日本の岡山県で生まれ、24年間岡山県和気町の町長を務めた。生まれた時から中国と縁があり、名前の道生は中国の「論語」から取ったもので、高校も儒学教育を特色としていた。

  藤本道生の話によると、彼が住んでいる町には、昔ある偉大な人物――和気清麻呂がいた。彼は奈良、平安時代の有名な政治家であり、遣唐使空海を助けて、中国に派遣した。先進の文化を中国で学んだ空海は日本に帰り、国の発展に大いに貢献した。そして今の平成になり、藤本は祖先に学んで中国と友好交流を展開したいと思い、中国との交流を始めた。

  上海の嘉定を交流の対象とした理由について、藤本道生は「私の村には父とだいたい同じ年齢の長者が多く、上海と親しい間柄です。彼らは戦争の前に上海で商売をしていました。そして日本に帰った後、みな私に上海での楽しい生活や思い出を話してくれたのです。だから、私は以前から上海に親しみを感じていました。」と話した。

  上海のフジが中日友好のシンボルになってほしい

  1978年11月、藤本道生は中国で友好交流の都市を探すために、初めて上海の嘉定を訪ねた。そして当時の李宝林県長と嘉定の人々の温かい歓迎に感動した。1989年、2回目に上海を訪ねた藤本道生は、日本に戻ったら後で、上海で見た中国の発展や友好的な人々のことを日本国内に伝え、改革開放以来の中国の新しい様子を広めて、日本人に真実の中国を理解してもらおうとし、両国の関係を促進した。

  それから毎年、藤本道生は日本の各団体を連れて上海嘉定を訪ねている。その中には和気議会、政府関係者、農業、教育、医療分野などの代表団がある。嘉定区にも代表団ができ、日本の和気町を訪問した。両地の交流が深くになるにつれて、1992年10月15日、嘉定区と和気町は正式な友好交流関係を締結した。

嘉定紫藤園

  1997年3月19日、友好締結5周年を記念するために、藤本道生は畑で育てたフジ120本を上海へ持って行った。これらのフジを嘉定城南の古城河の近くに植え、敷地面積1万平方メートルの紫藤園はこれを原点として建てられた。「今の嘉定紫藤園は1日に何千もの人が訪れているそうですが、そんなに人気になるとは最初は全然思いませんでした。」

フジ育ての知識を伝えている藤本道生

  また、フジを選んだ理由について藤本は、100年ぐらい前に、ある日本の議員が3000本の桜の苗木を持ってアメリカのワシントンに植え、今はそこが世界でも有名な名所となり、日米友好のシンボルになったので、「私はフジが将来も中日友好のシンボルになってほしく思い、嘉定紫藤園を作りました。」と述べた。

  自分の目で上海の発展を見、真心で中国と友人となる

  藤本道生は1987年に初めて上海を訪ね、もう31年が経った。上海に100回以上やって来た彼は、自分の目で上海の発展を見て、真心をもって中国を友人と考えている。

  改革開放による上海の発展は非常に速い。「30年前の1987年、私は上海虹橋国際空港に着きました。空港は小さく、ドアを一歩出ればもう外に出てしまいました。そこから嘉定鎮の町までは約1時間の柳の街道で、人と自転車でごった返していました。」

  藤本道生の話によると、それから5年後に南翔、嘉定鎮の間に20キロの中国初の高速道路が完成し、上海市内へすぐ行けるようになった。当時、道路や家などの建設工事が様々な場所で行われていたが、重機を使うことはなく、竹の支柱と手仕事がほとんどだった。それが年々変化して行き、10年くらい経つと日本で見る工事現場と同じになっていた。

  美術館や音楽ホールは驚くほど立派なものができ、電車は市の中心部と直結し、紫藤公園をはじめ、多くの公園が整備され、何よりもトイレなどの衛生環境が立派になった。

  「本当にこの30年間の発展はすごいの一言に尽きます。人々の生活は活気に満ち、教育水準や文化水準の高さは大したものです。」と藤本道生は感嘆を隠さない。

紫藤園で歩く藤本道生

  取材の最後に、「私は今年86歳になりました。もうこの先長くはないと思います。この頃は私の息子と上海の老朋友に、自分が死んだら骨の半分は日本に埋め、半分は上海の藤の根元に撒いてほしいとお願いしています。 私は中国の人が大好きです。」と藤本道生は語った。

藤本道生が書いた「改革開放への望み」

(範易成、写真も)