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「清明上河図」から見える中日の文化
2014年 4月 15日10:18 / 提供:人民網日本語版

 中国北宋(960-1127年)の都・開封の都城内外のにぎわい栄えた様子を描いた画巻「清明上河図」は、世界でも屈指の幻の名画として知られている。また、作者である張択端(ちょうたくたん)が、北宋の宮廷画家であったということ以外、詳しいことがほとんど分かっていない画家であるなど、謎の多いミステリアスな作品でもある。

 「清明上河図」をめぐっては、南宋(1127-79年)初期に開封の繁栄を回想して描いたとする説もある。また、清(1644-1912年)の時代に、「清明上河図」の模写が産業化し、北京ではオーダーメードしてくれる画室が数多く出現、比較的安価で取引された。そのほか、どの時代にも、「清明上河図」と名を打った類作が次々に出現し、同画巻の真相が一層混乱してしまった。

 今年、日本のジャーナリスト・野嶋剛氏の著書「謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実」の中国語版が出版される。同書は「清明上河図」の鑑賞の方法から、中国屈指の名画の裏にある波乱に満ちたストーリーまで、わかりやすくまとめており、価値のある作品となっている。また、同画巻を通して、中日文化の異同を浮き彫りにしており、興味深く、味わい深い一品でもある。

  清明上河図」の背後にある都市伝説

 私は20年前に日本に来てから、野嶋氏の著作を2冊読んだことがある。私が「清明上河図」を見たのは全て日本で、うち京都府立陶板名画の庭には、原寸を縦横2倍に拡大した、陶板画の「清明上河図」が展示されている。

 私は美術の専門家ではなく、「清明上河図」に関する知識は全て野嶋氏の著作から得たもの。同書は、知識を増やすことができるだけなく、おもしろく読むことができ、本当に読む価値がある。ジャーナリストの野嶋氏は資料を収集したり、整理したりする面で長けているだけでなく、作家でもあり、中国の文化にも精通しているため、私は特異な作品に仕上がっていると思う。都市伝説を背景に、文化や政治などにも触れており、とてもおもしろい。

 宋の時代も中日交流が頻繁

 中日の文化交流と言うと、多くの人が、唐(618-907年)の時代、特に日本が遣唐使を派遣したことを連想するだろう。日本の当時の朝廷は、中国の文化や制度を取り入れるために遣唐使を派遣していたが、907年に唐が滅亡したことや遣唐使の多くが海上で遭難を経験したこと、遣唐使を派遣するために国庫が空になったことなどが重なり、廃止された。

 唐末期から宋の初期にかけて、中国の商業は非常に発達しており、海上における往来のために政府の財力を頼る必要はなかったため、民間の交流が始まっていた。宋の文化は、僧侶や商人によって、日本の寺や民間に直接伝えられた。これが唐の時代と大きく異なる点だ。

 宋の時代に描かれた「清明上河図」の中に、「新酒」という文字がある。これは「春に醸造した酒」という意味で、「酒熟」は秋を意味する。今でも、日本では春の初めに酒造りを始め、酒造り場の門には、スギの葉を集めてボール状にした「杉玉」が軒先に吊される。吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて色が変わり、夏の終わりから秋の初めに枯れて茶色がかってくると新酒が出来たことを知らせる。

 「清明上河図」を通して、中国文化の日本に対する影響を探すのもおもしろいと思う。

 日本に完全に溶け込んだ中国文化

 私は、「日本人は中国の文化が好き」というのは間違っていると思う。日本人は中国の文化が好きなのではなく、中国の文化を日本の文化に変えたのだ。そして我々は、それは元々中国の文化と言いたがるが、それも間違っていると思う。なぜなら、完全に変化して、日本の文化に溶け込んでいるから。それはもう日本の文化だ。

 例えば、日本人は「三国志演義」がとても好きで、中国ではなく日本の歴史だと考えている。日本の歴史を遡ると、自然と古代中国にたどりつく。

 また、「沢庵漬け」は、江戸時代に中国禅宗五家の1つである臨済宗の僧?沢庵宗彭が考案し、民間に広がり、日本人の生活の一部となったという説がある。現在、日本人の「沢庵」は中国に由来を発しているという必要もないし、沢庵と臨済宗を結び付ける日本人もいない。

 日本は中国より変化が少ない

 中国と日本を比べると、中国のほうが変化が大きいと、私は思う。

 中国の文化は絶えず変化している。なぜなら、中国は歴史の中で、何度も王朝の交替を経験し、交代に伴って多くのものも変化してきたから。一方、日本では、古代から天皇が頂点に座し、それが覆されることはなかったため、一般人に対する影響はほとんどなかった。また、島国である日本は、文化が豊富とは言えず、1つの物を細かく研究し、大切にする。例えば、漢方薬の服用量は、中国のそれよりずっと少ない。日本では、腸を刺激すると言われているが、私は、漢方薬が中国から輸入されるため、値段が高く、量を減らすしかないのだと思っている。そのように、生活の至る所で、細部まで気を配るようになる。

 これが、宋の時代の多くの生活文化が中国では消失してしまったのに、日本では残っている原因である。

 日本人は中国の歴史が好き

 日本にも、「清明上河図」で描かれているような、繁栄した時代、江戸時代(1603?1868年)があった。当時の江戸は、人口100万人前後に達しており、世界最大の都市となっていた。しかし、1179年に終わった中国の宋の時代とは400年以上の差がある。

 「清明上河図」に描かれている「虹橋」を見ると、私は江戸時代の「江戸橋」を思い出す。「浮世絵」などに描かれている橋もとても繁栄している。日本の「浮世絵」は当時の繁栄した一般市民の生活を映し出している。また、張択端のように、彗星のごとく現れて消えた浮世絵師?喜楽もいる。

 日本では「三国志」を題材とした作品も多い。日本人が中国の文化をテーマにするのはとても自然なことだ。日本人は登場人物である諸葛亮が好きなのに対して、中国人は劉備が好きな人が多い。このように、中国の文化が日本に伝わり、日本の文化へと変化しているため、私は日本に来て、日本の文化を見るととても親しみを感じる。しかし、それらは昔の文化であるため、日本人が今の中国に行っても親しみを感じない。

 繁栄と民度は深い関係

 張択端の時代はなぜそれほど繁栄していたか?それは、宋の時代が文人(学問を修め文章をよくする人の意)化時代で、経済や文学、芸術が発達していたからだ。また、それが民間へと普及し、文化という分野で非常に理想的な状態だった。しかしそうなると、周囲の野蛮な国から見ると、国力が弱く見えた。実際には、宋の時代、国力が弱かったわけではない。もし、周囲の国も、文明的であったなら、それが問題になることはなかっただろう。

 日本はいつの時代が良かったのだろう?私は江戸時代だと思う。江戸時代は、統治階級を武士化することなく、文人化の時代だった。そして、儒教を通して、戦争時代の武士達の振る舞いや思いを改善しようとした。当時、「士農工商」という身分制度があり、武士は模範を示す必要があった。中国では、「江戸時代」というと「武士」を連想することが多いが、実際には当時の日本は「文人化」の道を歩んでいた。

 中国の文化をいかに継承するかは、政府の責任であって、私がどうこういうことではない。よく分からないが、「文化の発揚」となると、海外で発揚することばかりが取り上げられるが、国内では何が行われているのだろう。国民の民度が高ければ、「発揚」など必要ないのではないだろうか。

 私は、中日はもっと文化交流を行い、中国人は日本人について、一方の日本人は中国人についてもっとよく知らなければならないと思う。

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