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レスリー・チャンの上海の足跡を追憶ーーファーストとラスト
2013年 4月 1日17:10 / 提供:東方ネット
レスリー・チャンの上海の足跡を追憶

 今年は、レスリー・チャン(張国栄)没後10周年である。生前、歌、映画、ボイスで、この世界に多くの芸術財産を残した。10年来、愛する人々は追いかけて、足取りが休んだことはない。

 レスリー・チャンは生前、上海この都市への愛を一回以上示した。「上海に来るチャンスがあれば、和平飯店へ行って、静かなホールで、イギリスの紅茶を飲んだり、ピアノを聞いたりすることが好きだ。窓口からバンドの古い建築を見て、身の回りの男女の上海語を聞いて、遠くから伝わってくる騒がしい音などで、大都市の呼吸と脈を感じる」と述べた。

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ファーストとラスト

 ファースト:大光明映画館の歴史に記載された『さらば、わが愛(中国名:覇王別姫)』の試写会

第

写真:上海が初めてのレスリーが、この都市への好奇に満ちる

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写真:レスリーが『覇王別姫』ポスターの前で、記念写真を

 1989年に上海重点保護文物にされた大光明映画館の歴史で、万人が殺到した輝きが3回ある。3回目は1993年7月、レスリー・チャンとチェン・カイコー(陳凱歌)が『覇王別姫』(第46回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール受賞)を持って、上海に中国大陸のPRをしたことだ。それも、レスリーが初めて上海のメディアとファンの前で出たことだ。

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写真:試写会の当日、大光明映画館での混乱した場面

 同日の場面は「壮観」より適合する言葉で形容するものがない。同映画の初の上演のチケットは50元に達して、当時、中国大陸でチケット価格の最も高い1回だが、依然として超満員だ。ダフ屋は100元だったが、買いたくても、売る人はいない。「当時、レスリーの洋服の上のボタンはすべて押しのけられた」「映画館のガラス製のドアが押されてばらばらになった」とある人は述べた。

 当時出版された映画雑誌の『記憶映画』で、「レスリーはとうとう登場した。気の短いファンは歩哨の音を震天のこだまに吹き、『レスリー以外の人の嫁にならない』という横断幕を掲げた」と書いてあった。

ラスト:2002年12月末、上海博物館

 2002年12月末、レスリーはひそかに上海博物館に「72点の国宝クラスの晋唐宋元書画珍品展覧」を見に来た。レスリーによると、この目で見たい。見ないと、一生後悔する。当時、上海の有名なPR人の包一峰氏の案内で、今回の「公開しない上海の行き」を完成した。レスリーは生前、中国伝統文化を好み、文物に高い鑑賞力を持ち、現代著名国画師匠の作品を収蔵し、斉白石、黄賓虹らの作品が非常に好きだった。

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上海博物館

 包氏の記憶によると、その日、レスリーの気持ちはとても良かった。この目で、国宝を見ることは人生の幸いなことだ。午後をかけて、展示品の前で、詳しく鑑賞した。だが、遺憾もある。その時、展示された『清明上河図』を見る人は多すぎて、市民はレスリーが来たと見分けられた。見学に影響しないように、見ることをやめた。それも彼の上海への最後の1回だ。

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写真:2002年、上海博物館で開催された「72点の国宝クラスの晋唐宋元書画珍品展覧」

(編集:曹 俊) 

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