日本の春といえば桜を思い浮かべる人も多いだろう。日本人の桜好きは多くの言葉を生んだ。天気予報を見れば、何日に各地の桜がどの程度咲くかの予想を示す「桜前線」が分かる。そして、花の咲く程度を、一分咲き、三分咲き、七分咲き、満開と細かく分類し、それぞれの桜を楽しむ。また、夜に桜を見て、真っ暗な夜に白く浮かぶ桜を楽しむことを「夜桜」という。そして、桜の花びらが風に舞い散る姿を「花吹雪」という。(西川芳樹さん 福井県立大学?大手前大学非常勤講師)
中国で留学中、この花吹雪に驚いた。中国でも日本でも花の美しさを詩に詠む。日中だけに止まらない、花に美しさを感じ、その美しさを文字で表現することは古今東西を問わず普遍的な営みであろう。ところが、花が散る姿に対する感覚は日中で異なるようだ。
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則
日本の和歌で花というと、断りがない限り桜を指す。穏やかな光がさす春の日に、どうして桜の花びらは散っていくのか。花びらが風に舞う美しさを詠むが、去りゆく春を惜しむ哀愁が歌の底に流れている。日本人は散る花に春の終わりを思い、どこか暗さがある。
しかし、中国では花の散る姿に哀愁は感じない。
少年行 李白
五陵年少金市東
銀鞍白馬度春豊
落花踏尽遊何処
笑入胡姫酒肆中
三句目の「落花踏尽遊何処」は金持ちの子弟が、異国の女性を訪ねるため、散った花を踏みつけて行く様を詠んでいる。春、あるいは青春を謳歌する明るさに満ちた詩だ。落花に対する日本人の感覚は、暗く、哀しみを帯びたものであり、中国人の感覚は華やかさ、煌びやかさを持つ。落花に対するこの感覚の違いは相互の国の花を観賞する文化がその背景にあるわけで、どちらか一つの感覚、解釈が正しいわけではない。しかし、互いの感覚の違いに気づき、新たな視点として自分の感覚に組み込めば、自分の心が豊かになり、相手の気持ちに気づくこともできるようになるだろう。このような、自分とは異なる見方を知ることは古典文学や外国文学を読む面白味の一つといえる。
ところで、人の交流は互いの考えを受け入れることだと思う。人間は同じことに笑い、泣き、怒り、苦しむ。だが、人は時には少しの感覚の違いが理解できず、互いに反目し合う。しかし、反目しているだけで、反発し合えば、やがて争いになる。自分の感覚だけを絶対とせずに、違いを受け入れることが、人の交流には大切だ。
国際交流はこのような相互理解をより大規模にしたものだろう。国際交流は政治家が条約に調印すれば完成する者ではない。たくさんの人間が、互いの国の相互の立場や考えに興味を持ち、尊重しながら交流してこそ、真の国際交流だろう。
其?地上本没有路,走的人多了,也?成了路。 ?迅
筆者は自分の考えが正しいと押しつける気はさらさらない。だが、この短い文章が感覚の違いについて考える機会になればと思う。
ヲ、