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小説は個体の不幸にも、気持ちの共鳴にも存在=阿刀田高氏と莫言氏
2012年 8月 17日17:12 / 提供:東方ネット
阿刀田高(左)と莫言が「小説の存在理由」をテーマにして、すばらしい対話を

 上海ブックフェアで、「小説の存在理由」をテーマにして、日本の有名な小説家の阿刀田高氏と中国の作家の莫言氏が、すばらしい検討を行い、「小説は個体の不幸のためにも、人間の気持ちの共鳴のためにも存在する」で一致した。

阿刀田高氏:小説が不幸の人のために存在

 40年以上の創作経験を持つ阿刀田高氏は、小説の存在意義をずっと考えている。早くから、小説を書いて、発表する深い意義は何かと考え、一部の本でその回答を探した。だが、小説を書くことは何だというような本は多いが、なぜ書くのかを検討する人は少ない。

 阿刀田氏が探した初の関係文献は中国とかかわって、中国の元主席の毛沢東の『延安文芸座談会における講話』だ。それに次いで、日本の先輩作家である伊藤整氏に触れて、「ある本で、芸術はいずれの個体の存在に役立つと書いたことがある。もちろん、人間の幸福、すべての社会の幸福も、文学存在の価値である」と思われた。

 阿刀田氏によると、だが、すべての人は幸せではないが、社会の暗い面もある。いずれの個体に自分の悲しみがある。日本の作家の渡辺淳一氏の作品を例にして、渡辺氏の作品には不倫愛のテーマがあるが、社会と婚姻制度から見れば、不道徳な行為だ。しかし、個体にとって、非常に重要な人生の一部でもある。このような不幸と悲しみを読んで、このような作品に感動させられた。ある程度、小説は不幸な人のための存在ではないが、この角度から、文学、文芸の存在の価値も感じた。

莫言氏:小説が人間の気持ちの共鳴を示す

 阿刀田氏の見方に対して、莫氏もある程度認めた。渡辺氏の『失楽園』を見たこともある。社会公認の価値と道徳から見れば、主人公は道徳に反したが、小説から言えば、その価値がある。不倫を読んだ読者はいるし、絶望を読んだ読者もいる。さらに、中年知識人の精神上の苦痛も読んだ。

 莫氏によると、日本だけではないが、中国にもこのような作品がある。たとえば、『金瓶梅』で、大量の肉体描写は数多くの批判を招いたが、認めた人もいる。いずれの作家に馴染むことでも、自分の気持ちと生活経験でも描くのは、いい作品のハードルになれないが、創作は高度に個性化された労働だ。日本文学でも、中国文学でも、翻訳を通して、読者を感動させることができるのは、作品で、人間の気持ちの共鳴を示したからだ。

小説を書く時、ドラマの改編に便利だと考えることはできない

 作家作品とドラマの関係というと、莫氏は「主動しない、断らない、干渉しない」でまとめた。作家が創作する時、独立性を維持することは必要だ。ドラマに改編することを考えることはできない。そうしないと、小説への傷で、自分がこのような深刻な教訓がある。

 阿刀田氏は50部以上の作品がドラマに改編された。この点で、莫氏との見方が同じだ。「小説家は作品を一心一意で書くべきだ。ドラマ?映画に改編する時は、儲かることが多いが、初めから、利益を考えると、いい小説を書き出すのは無理だ」と語った。

(編集:曹 俊)

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