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安倍政権の価値観はきわめて危険
2013年 9月 5日13:14 / 提供:新華網日本語

 

 今年の9月3日は抗日戦争勝利68周年の記念日にあたる。しかし、当時の東京湾での戦艦「ミズーリ」上における調印降伏の威儀は日本の軍国主義の幽霊を完全に密封したわけではなく、それは正に極度の危険な価値観を備える安倍晋三政権に乗り移っている。

 安倍晋三首相は昨年末に日本の首相に返り咲いた後、第二次世界大戦終了以来「最も右翼化」した内閣を設立した。際立った特徴の一つは、安倍内閣の閣僚メンバー19人のうちなんと14人が極右の「靖国神社に参拝する国会議員の会」に属していることだ。

 安倍首相はその内閣を率いて一歩一歩右翼化の行動を実行しつつあり、日本のファシズム侵略戦争の歴史を公然と美化し、「侵略定義未定論」を公然と持ち出して、「村山談話」を完全には受け継ぐことはできないと大言を吐き、多数の内閣メンバーに敏感な敗戦投降記念日にA級戦犯14人の位牌を祭る靖国神社への参拝をそそのかした。

 安倍首相及びその内閣はまた「秩序立てて」「平和憲法」第九条改正の推進までしているところで、甚だしきに至ってはその副首相が表に立ってナチスの憲法改正をまねると言いふらしており、その目的は戦後秩序の配置と国内の最高法律における厳格な制限を突き破り、「専守防衛」の正規の軍事力と戦争を発動する権利の放棄を図って、「集団的自衛権」、「先制攻撃」などの企てに下地を先行することだといえる。

 安倍晋三首相の「個人ショー」、例えば、戦闘服を身にまとって戦車に乗ったり、戦闘機に乗ったり、「主権の回復の日」に戦時中の帝国議会の動作を真似して、興奮して「天皇陛下万歳」と大声で叫んだり、自腹で靖国神社の戦犯の亡霊のために「供え物」を奉納したりするようなことが人に恐れさせる……これに類似した諸々の表現で、その内心の本質が分かるだろう。

 安倍政権の第二次世界大戦後の国際秩序に挑戦する一連のふるまいを分析すると、その日益しに右翼化や極度的な右翼化の本質は価値観の問題―ファシズムに対する内心の崇拝と軍国主義の精神の帰依であり、これは「自由、民主、人権」を自画自賛し、至る所でいわゆる「価値観外交」を吹聴している安倍政権にとって、まったくこの上ない自己否定と風刺なのだ。

 しかし、今の世界を見渡すと、安倍晋三首相を代表とする日本の右翼勢力を除いて、誰が人類の道徳と価値のアンダーラインを扇動しに行き、日本ファシズムの発動した侵略戦争がアジア太平洋の人々に塗炭の苦しみをなめさせた罪悪の歴史を公然と否定?美化するかその真実な様相が日に日にさらけ出される際に、誰がこのような危険な政治人物と同業の仲間になることができるのか?

 価値観は人の行為を決定する心理の基礎で、政権ないしは国家の価値観はすなわちその執政と発展の方向を決定する。第二次世界大戦の日本のファシズムにおける主犯の一人である東條英機などの価値観こそがファシズムと軍国主義にあり、そしてそれにより導かれた対外的な野蛮な侵略がアジア?太平洋地域を残虐きわまりない戦火の中に陥らせ、自由、民主、人権を残害した。

 反動的な価値観と誤った歴史観は安倍及びその内閣に戦後の国際秩序と「平和憲法」を勝者から無理矢理日本に押し付けた敗戦の結果だと見なさせ、第一次世界大戦後のドイツの『ベルサイユ条約』に対するの認知と全く同じだ。正にこのような考えが第一次世界大戦敗戦後のドイツの報復の心理状態を日益しに強めさせ、そして最後ナチスに第二次世界大戦を発動させるに至ったことを歴史は人々を警告している。

 もしも日本が「極右」の道を歩けば歩くほど遠くへ行くのを放任するのなら、それは誰にとっても一種の巨大な危険であることを国際社会は絶えず悟らせるべきなのだ。

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