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日本の3大球技が中国を凌駕 「東亜病夫」が民族の懸念に(二)
2012年 12月 22日10:30 / 提供:チャイナネット

 中国は1978年から改革開放を始め、その経済建設・社会発展のペースは世界を驚かせた。中国の競技スポーツもまた、発展の「春」を迎えた。中国は1982年のアジアオリンピックで、初めて日本を抜き金メダル数で首位になり、その後も首位の座を維持している。中国代表団は2008年の北京五輪で、記録的な成績により金メダル数世界一に輝いた。

 しかし東京五輪開催時の日本と同様、国民経済の30年間の高度発展を経た中國では、青少年の健康問題が現れ始めた。

 日本代表団がオリンピック・アジアオリンピックでかつての輝きを失うと、日本の大衆的なスポーツ、特に学校の体育に極めて大きな変化が生じた。

 2011年女子サッカーW杯ドイツ大会において、日本はアジア初の優勝を果たした。2012年のロンドンオリンピックにおいて、かつてアジア一の実力を誇った中国女子バレーはトップ4入りを果たせなかった。準々決勝で中国を破ったのは日本で、最終的に銅メダルを獲得した。

 中国代表団が「国を挙げての応援」により、オリンピック・アジアオリンピックで金メダルをわしづかみにする一方で、3大球技の低迷が目立っている。団体球技は、多くの競技人口が必要だ。日本の女子サッカー・女子バレーの台頭は、サッカーやバレーボール等の団体球技の高い普及率によるものだ。この普及の場となっているのは、学校だ。

 サッカー、バスケットボール、バレーボール、野球、ホッケーを含む団体球技は、日本の各学校で高い普及率に達している。日本の高校サッカー選手権の参加チームだけでも4000チーム以上に達するが、中国の高校サッカー選手権は約200チームしか参加していない。全国の高校数と在校生数を基準として比較すれば、中日両国の高校サッカーの発展水準は200対4000どころではないが、このデータは少なくとも両国の学校のサッカー普及状況を分かりやすく示している。

 中日両国の男子サッカーは、1975年6月23日に初試合を行い、(1976年AFCアジアカップ予選)、中国代表が2対1で日本に勝利した。中国は体格面で勝るため、その後10年に渡り日本に勝ち越していた。しかし90年代以降、両国の成績は逆転した。中国には韓国の他に、日本という強敵が出現した。両国の女子サッカーの発展の差は、中国のサッカーファンを落胆させる。中国の女子サッカーは日本より早く発展し、オリンピック銀メダリストとして、世界でも有数のチームとなった。しかし輝かしい歴史はあっという間に過ぎ去ってしまった。現在の中国女子サッカーは、世界サッカー界における地位を失い、アジアでも日本女子サッカーの発展を見ながらため息をつくばかりだ。日本サッカー協会の統計データによると、日本全国で登録された女子サッカーチームは1200チーム以上に達した(2010年時点)。このうち大学?中学のチームが中心となり、登録された選手数が2万人以上となった。しかし中国の女子サッカーチームは縮小を続け、ピーク期の30数チームから10チーム未満となり、選手数も100人余りとなっている。

 東京五輪の1964年から40年後、日本代表団は2004年のアテネオリンピックで、再度16枚の金メダルを獲得した。この40年間は日本の競技スポーツにとって長く苦しい道のりであったが、確かな成果が得られた。東京五輪終了後、日本は国民スポーツ事業の発展をスポーツ事業の重心とした。日本の競技スポーツの成績は悪化を続けたが、大衆スポーツおよび学校体育により基礎固めを行った。日本の競技スポーツは40年後のオリンピックで復活し、力強い生命力を獲得した。

 40年以上が過ぎ、東京五輪が今日の日本社会に残した最も貴重な遺産は何だろうか。東京五輪をリアルタイムで観戦した50歳以上の日本人にとって、五輪の感動と興奮の時間は一種の遺産である。しかし山田氏が語ったように、日本の全国各地にあまねく分布する運動の場、学生の体育活動時間と空間の確保、競技スポーツと大衆スポーツの調和的発展が、日本国民全体に利益をもたらした。

 北京五輪が閉幕してから4年が経過するが、中国人に当時どれほどの感動をもたらしたとしても、その記憶は日増しに薄れていくだろう。「比べられるもののない」オリンピック、中国代表団の記録的な金メダル数はすでに歴史となったが、これは北京五輪の真の人文遺産にはならない。喜ばしいことに、北京五輪の人文遺産の発掘に注目する専門家・学者が増加している。オリンピック教育・スポーツマンシップの伝承は、現在の中国社会、特に青少年にとって非常に重要だ。