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日本は何をもって「明日への責任」を担うのか
2012年 10月 31日13:35 / 提供:人民網日本語版

 日本の第181回臨時国会が29日に開幕した。野田佳彦首相は衆議院本会議の所信表明演説で経済のたて直しを内閣の最優先課題として挙げ、「日本再生戦略」を柱とする経済政策を実施すると表明。「明日への責任」を短い演説で実に20回も強調した。(文:華益文・国際問題専門家。人民日報海外版コラム「望海楼」掲載)

 野田氏が「明日への責任」というフレーズを公の演説で使用することを特に気に入っていることは明らかだ。グーグルで「明日への責任」と「野田首相」を日本語で検索すると、2万3000件もヒットした。英語だと1400件余りだった。野田氏の今回の演説に世論がかなり注目していることが見てとれる。

 野田氏は第67回国連総会での発言でも、まさに「明日への責任」と題して日本の内政、外交政策を明らかにし、「人類の3つの叡智」について詳しく述べた。第1に「今」だけでなく「未来」に着眼する思考能力。第2に「私たちが住む地球を俯瞰する多様な視点」。第3に「紛争をルールに基づいて理性的に解決する作法」だ。野田氏は各国に「明日への責任を共に担う」よう呼びかけた。

 ちょっと聞くと、「明日への責任」を論じることで示されているのは戦略的な視点と度量だ。だが国内政治の場においても国際政治の舞台においても、少し現実と対比してみれば、野田氏の言及する「明日への責任」が名実相伴わない感覚を与えることにすぐに気づく。国内では野田氏は「明日への責任」を果たすために途中で投げ出すことはできないと主張しているが、実際にはこれを口実にしており、首相の座と民主党の与党の地位を維持すべく、簡単に早期解散・総選挙をするつもりはない。国際的には、日本は歴史問題、地域の安全保障、領土紛争の扱いと処理において「人類の3つの叡智」を示してはいない。こうした状況の下で「明日への責任」を大言壮語するのは、表面上相手を安心させておいて、陰では相手を負かそうと策を施している疑いがぬぐえない。野田氏は所信表明演説で、周辺海域の警備体制の強化も主張し、「領土、領海の保全においては絶対に譲歩しない」と言明した。領有権争いに関わる問題で対外的に強硬姿勢を示すという言外の意は明々白々だ。

 野田内閣と日本政府が「明日への責任」を真に担うには、日本の「明日」と周辺国、地域、さらには世界の「明日」が結びついているということをはっきりと理解しなければならない。この「明日」が指すものは平和・安定・発展であるはずだ。この「責任」が指すものは平和・安定・発展を守り、促し、国家と地域の平和・安定・発展にプラスの環境と条件を創出することであるはずだ。

 中国は中国の前途・命運が世界の前途・命運と日に日に緊密に結びついていることを、すでに深く認識している。同様に地域の大国、世界第3の経済大国である日本の前途・命運もこの地域の前途・命運と緊密に結びついている。この点については正の例が数多くあると同時に、日本による釣魚島紛争の挑発とそれによる中日関係への打撃、日本経済への波及など負の例も少なからずある。

 日本が「明日への責任」を担うには、侵略の歴史の責任を回避することはできない。地域のトラブルメーカーになるのではなく、「歴史を鑑として未来に向かう」を真に果たすべきだ。これは中日関係処理の基本原則であり、日本が自らの歴史的位置づけと地政学的戦略の位置づけを受け止め、処理するうえでの基本的原則ともするのが当然だ。

 もし日本軍国主義の亡霊に死んでもしがみついて放さず、日本の過激右翼勢力を放置し、さらには迎合し、安全保障上の外来の脅威をほしいままに誇張し、かつそれを根拠に平和憲法の制約を取り払い続け、一個人、一党の私利のために地域に摩擦をつくりだし、国際紛争を引き起こすのなら、そのような日本に「明日への責任」を大言壮語する資格があるだろうか?「明日」にしてみれば、日本に欠けているのは「昨日」に対する正しい省察、および「明日への責任」に対する戦略の見込みである。(編集NA)