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中国侵略日本人戦犯の罪自供:兵士に殺人の肝試しを要求
2014年 7月 7日13:23 / 提供:新華網日本語

 藤田茂の1954年8月の供述書によると、彼は1889年日本?広島県生まれ。1938年8月中国?山西省へ中国侵略戦争に参加し、陸軍騎兵第28連隊大佐隊長を務める。1945年3月第43軍第59師団中将師団長を務める。1945年8月に朝鮮の咸興で捕虜となる。  

 重要な罪行: 

 1938年8月、山西省河津で住民6名を逮捕し、「これらの逮捕された人民に尋問する際拷問、殴打などの方法や手段を使い、そして殺害した」。  

 1938年11月、山西省運城の東北40キロの三道李村で、「多数の三道李村の住民を探索し虐殺した」。

 1939年1月中旬には、山西省安邑県張良村で、「将校全体に対し『兵を戦場に慣れさせるためには、殺人は手っ取り早い方法で、つまり肝試しだ。これに対し捕虜を使うのがいいだろう。「刺し殺すのは射殺するより効果がある」と教え込んだ。4月、夏県で、「私は第1中隊長に命じて……部下の9人の兵に捕虜9人を刺し殺させた」。8月15日、山西省澤州で、「私は8人の捕虜を第1中隊に任せ、9名を第2中隊に任せて教育教材として刺し殺させた」。  

 1944年3月から1945年4月まで、騎兵第4旅団長を務めた期間中、「ガス弾:74発(緑弾)を使用した」。

 1944年4月10日、「私は帰徳旅団司令部で、各隊長を召集し、「ガス弾使用の権限を連隊隊長に与える。この作戦期間中、騎砲1門はガス弾20発を携帯し、連隊砲1門はガス弾10発を携帯する」、「捕虜はできるだけ戦場で殺害し、『戦果に算入させろ』」と命令した。

 1944年5月2日、河南省許昌の南西10キロにある黄旗衛村で、「捕虜4人を刺し殺した」。

 1944年5月21日、河南省洛陽で、「中国人民12人を射殺した(1人は女性)」。

 1944年10月26日、河南省太康付近で、「中国人民6人を拷問して殺害した」。12月16日、黄河北左岸帰徳北地区では、「中国人民11人を拷問して殺害した」。

 1945年3月27日、「竹林橋の北200メートルのケ県の古い河口道にある約50戸の村で、共に住んでいた人民を、老人、女性、子供さえ、……これらの住民を虐殺した」。同日、「馬屈山での攻撃にガス弾を使用した」。

 1945年5月9日、山東省沂水の北西約25キロメートルにある石橋で「多くの中国人民を殺害した」、「火を放ち、石橋村を全焼させた」。同月「作戦期間中、防疫給水部に命じてコレラ菌を使用させ、細菌戦を実施した」。豪山の八路軍を攻撃した時、「ガス弾とガス筒を使用した」。「八路軍が埋設した地雷の害に遭うのを予防するため、案内と呼称し、十数人の人民を先行させた事実は、実際には地雷を爆発させるため、地雷の埋設された区域を歩かせることを命じた」。

 1945年6月、「済南での捕虜虐殺」は、「陣地構築として使われている済南捕虜収容所の600人以上の捕虜を、6月15日以降は教育用に刺し殺した」。

 「終戦後の処理。(1945年)8月17日各大隊長を召集し左のように命令した:1 .各種文書の廃棄(日本帝国主義の罪の消滅、特に共産党弾圧に対する証拠の隠滅)、2 .特殊な弾丸の埋没(ガス弾、焼夷弾、発煙弾、曳火弾、及び一部の信管)、3防毒マスク(具)の隠滅……」。

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