Home > ニュース > 国際  > 「わたしたちは中国の人々に対し許されない罪行を犯した」??日本戦犯による新中国特別軍事法庭での供述 ?
「わたしたちは中国の人々に対し許されない罪行を犯した」??日本戦犯による新中国特別軍事法庭での供述 ?
2014年 6月 19日16:23 / 提供:新華網日本語

 中国侵略日本軍による「九一八」事変(満州事変)の横暴な発動から、最後に残された日本戦犯が最終判決を受けるまでの間、古城瀋陽は、これほど劇的な方式で、歴史の潮流の渦が前方向に進む様子を見守ってきた。

 1956年6月、新中国成立からまだ日が浅い頃、特別軍事法庭でソ連に引き渡した日本の戦犯36人に対する公開裁判を行った。甲子(十干の初めの甲と十二支の初めの子が合する年または日)が間もなく過ぎ去る今日、戦犯らの法庭での悔い改めと供述を再び直視することは、善良な魂に対する葛藤であり、さらには歴史に対する厳粛な回顧であり、現実に対する冷静な思考でもある。

 鈴木啓久案件は瀋陽特別軍事法庭で審判された「一号大案」だった。昔日のこの陸軍中将は、旧日本軍が河北?県潘家戴庄、遵化県?家峪で「掃討」を実施し、遵化、?安などの県の長城沿線地域を「無人区」にするように指揮し、話しを聞く人々を驚愕させる数々の残忍な事件を起こした。

 法庭での供述で、鈴木啓久は次のように語った。「(潘家戴庄で)村人を広場に集めて大虐殺した。例を挙げると、赤ん坊を母親の腕から奪って地面に突き落とし、妊婦の腹を切開し、村人を生き埋めにして薪と草を積んで点火して焼死させるか、刀、機関銃などの武器で殺害した。瞬時にこの村で1,280人余りを虐殺した。残酷な虐殺の後、村中の家屋を焼き壊し、そこで食糧、衣類などの物資を略奪し、この村に「三光作戦(それぞれ「殺し つくす」「焼きつくす」「奪いつくす」という意味)」を徹底して実施した。……この事に対して、私は誠意をもって謝罪する。」

 法庭での最後の陳述で鈴木啓久は、泣きながら語った。「私によって理由なく殺害され、私によって平和な生活を破壊された人々のことを思い浮かべると、心が粉々に砕けるほど辛い。」

 前日本陸軍39師団中将?師団長の佐々真之助は、法庭で次のように供述した。襄樊作戦で、挺進隊(武装特攻部隊)を南?県武安堰付近に派遣し、罪のない女性、子供、老人を12人殺害した。五家営村付近で住民18人を捕らえ、針金を串のように突き通して殺害した。また、襄樊で30人余りの中国の平和的な住民を針金で縛り、川に投げて溺死させた。さらに、私の部下が女性を強姦し、女性を輪姦し死亡させた。

 「私が犯した的罪行は、起訴状に書かれたことよりも多い。私はここで、中国の人々の前で頭を下げて謝罪する。どのような罰を受けるかにかかわらず、法に服したい。」佐々真之助は法庭での最後の陳述でこのように述べた。

 元731部隊、第162支隊少佐支隊長の榊原秀夫は、法庭で次のように供述した。

 1945年3月、チフス菌を用いて抗日中国人4人の生きた身体で実験を行った。1945年、榊原の支隊は試験管870本分のコレラ菌、チフス菌などの細菌を培養し、大量のネズミとノミを捕獲して繁殖させ、大規模な細菌戦の準備を行った。

 「私の罪行は全世界の人々が公認する神聖な国際公法を踏みにじり、人道主義の原則に完全に違反している。私は中国の人々、日本の人々及び全世界の平和を愛する人々の前で深々と謝罪の意を表したい。」榊原秀夫はこのように語った。

 「私の罪行は極めて厳重で、罪を認めることは生涯の問題であり、私の命がある限り、被害者たちの心の声を固く刻み、記憶し続ける。」前日本陸軍59師団中将師団長、藤田茂は法庭での最後の陳述でこのように述べた。

 藤田茂は服役し、釈放されて帰国した後、自身の誓いの言葉を実践し、中日友好のために余生をかけて奔走した。藤田が書いた回顧の文章に、このような言葉が記されていた。あの戦争は日本軍国主義が計画的に発動した侵略戦争だった。中国の東北地方から海南島まで、日本軍国主義が侵略した地域は、至る所に中国の人々の血の跡が付着していた。私たちはこの事を深く記憶に留めなければならない。日本が中国を侵略したことは、消し去ることのできない事実だ。

着し

関連記事