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震災1周年、被災地に芽生えた中日友好 宮城(写真)
2012年 3月 13日9:26 / 提供:人民網日本語版

 仙台空港(宮城県名取市)1階ロビーに設けられた1枚のパネルが目を引く。温家宝・総理が昨年5月21日、宮城県を視察した際の2枚の写真だ。記者がカメラに収めていると、空港スタッフが駆け寄ってきて、こう話した。「中国の皆さんは日本国民の佳き友人です。温総理があの時宮城県を視察に訪れられたことは、私にとっても同僚たちにとっても非常に心に響きました」。人民日報のウェブサイト「人民網」が伝えた。

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 同じようなことはほかにもある。石巻市の仮設住宅活動センターへ取材した際、日本での生活が6年目になる宮淑蘭さん(女性)に会った。多くの記者が取材に来ると聞いた時は、中国人記者に会ったら安心の余り、話がとまらなくなるのではと心配していた、という宮さん。「この一年、最も心に残ったのは日本の皆さんがとても友好的だったことです。自分が中国人でも、被災地の地元の方々から孤立することはありませんでした。大震災発生後、日本の皆さんとの交流はより多くなり、以前にも増して睦まじくなりました。困ったとき、悩みがあるときは、いつでも近所の日本人の方々に相談します。皆さんとても熱心に私たちを助けてくださいます」と語った。

 「恩返し」をするために「佐藤水産」(宮城県牡鹿郡女川町)に戻ってきた中国人研修生らのエピソードは、地元町民を励まし、温めた。女川町では先月、「蒲鉾本舗・高政」(同)にも中国人研修生5人が戻った。研修生たちの再来日の選択は、震災後の被災地で、中日友好が真に実った証だ。日本人は研修生らを親類のごとく迎えた。彼女たちは望んで被災地復興のために日本に戻った。

 「高政」の研修生らが三浦勇喜管理部長を「お父さん」と呼んでいるのには驚いた。研修生の1人が「自分たちが日本に戻ったのは、ここの皆さんがとても親身になってくださるからでした。私たちを自分の子どもとして、日頃から生活のあらゆる面倒を見てくださり、日本語を教えてくださいました。津波が起きたとき、皆さんは私たちを真っ先に安全な場所に連れて行き、ご家族を探されたのはその後でした。避難生活の際も、おいしい物を先に分けていただきました」と説明。すると別の研修生もうなずきながら、「社長を『おばあちゃん』と呼んでいる水産会社もあります。日本は今、困難にありますが、自分たちの生活に影響はありません。衣食住ともに幸せです」と語った。