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仙台を中心に宮城県が不死鳥のように復活(7)
2012年 8月 15日14:00 / 提供:
塩釜の寿司哲

 2011年3月11日に起こった東日本大震災で福島県だけでなく、宮城県の仙台も甚大な津波被害を受けた。1年後の仙台はどうなっているのか?8月上旬、上海メディア代表団の一員として仙台を中心に宮城県のあちこちに足を運んでいた。        

 舌鼓を打つ宮城県の和食と日本酒  

 宮城県を旅行する際に、塩釜の寿司哲や如風居酒屋と花水木定食料理屋及び峩々温泉などでの和食を満喫していた。

 宮城県塩釜市は日本国内有数の鮨の水揚げ高を誇る港町であり同時に一平方kmあたりの鮨店の数の多さでは日本一の街で、知名度が一番高い店は何といっても寿司哲だ。毎日塩釜や松島のとびっきり新鮮な素材を揃えており、圧倒的な美味しさ。そればかりでなく、筑摩書房より震災から復興へ日本一のマグロを握る〜新編「塩釜すし哲物語」を発売したことにも驚いた。

 和食(わしょく)、日本食とも呼ばれる。日本でなじみの深い食材を用い、日本の国土、風土の中で独自に発達した料理をいう。和食料理の伝来について、古来より日本列島に住んでいた人々は、採集・漁撈で得た山菜や獣肉、クリやドングリを食してきたが、すでに縄文時代より雑穀の栽培が行われ、縄文時代の末期には稲作と米食が始まった。古くから煮物、焼き物、蒸し物など直火と水、鍋を用いた調理がされていたが、揚げ物は中国から入ってきたと考えられる。

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塩釜の寿司哲で

 さらに中国からは仏教を通して特殊な料理や茶が伝えられ、寺院において独自の発展をみた。これが精進料理である。さらに仏教を信仰した為政者により、家畜や猿などの野獣を食べてはいけないという禁令が飛鳥時代に何度も出されている。中国文化の影響を強く受けていた奈良時代には、それが料理や食習慣にも現れ、端午の節句や七夕など行事の移入につれて、晴れの日の特別な料理が作られるようになった。年中行事には、それに相応しい宴会が催されたが、中国から伝わった料理法が日本の風土や産物と結び付き、やがて日本風の料理に変化した。

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峩々温泉にある和食

 平安時代の初期には、中国の影響を消化しながら食文化は発展していった。唐揚げや唐煮、唐菓子などの料理が食膳に上り、中国風の納豆なども食べられていた。 鎌倉時代には、禅宗と共に喫茶の風習が広まった。禅宗の僧が食べていた精進料理が本格的に流入し、がんもどきなどの食品加工技術が伝わった。精進料理の影響により、大豆加工の技術や野菜料理の技法が大きく発達し、のちの日本料理の方向性を決定づけることになった。禅僧の修行の際の軽食を「懐石」と称していたのが後の懐石料理の語源である。また、栄西が中国から茶を持ち帰り、懐石と結びついて茶料理が生まれた。ご飯を食べる際に匙を使う習慣はすたれ、飯碗を手で持ち、箸で食べるようになった。

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一ノ蔵

 美味しい和食には欠かせないのは日本酒だ。一ノ蔵(いちのくら)は、宮城県の清酒製造業を行う酒蔵である。自然環境に恵まれた宮城県大崎市で、4つの酒造店がひとつになり1973年に創業した一ノ蔵。創業当時から「よい米を使い、手間暇をかけ、よい酒を造る」という姿勢を貫き、日本酒造組合が定める「手づくりの条件」を満たす伝統の技を生かし続けている。

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一ノ蔵のシリーズ

 経営理念として「人と自然と伝統を大切にし、醸造発酵の技術を活用して安全で豊かな生活を提案する」を掲げる一ノ蔵。主原料である米のほとんどに宮城県産米を使用し、商品の特性に合わせて10種類以上の米を使い分けている。同時に最先端の新工場を竣工。これが現在の多彩な製品の開発・生産に繋がっている。 蔵人による酒蔵見学や蔵開放限定の振舞い酒など・家族で楽しめるイベント盛りだくさん。

(章坤良 写真も)

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