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「“本を味わい日本を知る”作文コンクール2016」入賞作品 「私」としての生活

2016年 12月 30日16:52 編集者:兪静斐

    北京大学 汪書璇

 日本文学は文学アマチュア愛好家である私が最も広く目を通す外国文学かもしれません。

 夏目漱石、川端康成といった伝統文学から東野圭吾、村上春樹のような通俗文学まで、よく思い返してみると100冊以上あります。どうしてこれほど心を奪われるのか静かに考えてみると、おおよそ生活の2文字が理由のようです。

 日本文学は「私」の生活に最も近い文学なのです。

 主観的な独断による評価をお許しください。お願いします!まずは例を挙げてみます。

 「私」は普通の人で、混乱した残酷な戦火の経験がなく、氷と雪に覆われたキリマンジャロ山を制覇することもなく、思い出してもはらはらするような大恋愛もしません。「私」は都市で生活し、氏族社会の微妙で複雑な人間関係を味わっておらず、衣食の心配ない幼年期を送り、最大の苦悩は進学や仕事のストレス。「私」は20歳ぐらいで豊かな人生経験はなく、人生の起伏もありません。脇役たちは平々凡々な公務員、巨大なストレスの下でお金に困っているセールスマン、19世紀の結婚したヨーロッパの貴族を恨む女性、20世紀の第二次世界戦争の砲火の中で傷の痛みを癒やせない家庭……いずれも紙に書かれ、スクリーンで上映されると、感動やあこがれの部分もありますが、結局は心から共鳴できるものではありません。少年、キャンパス、都市、慣習どおりの仕事や勉強、濃さも激しさもない感情は、他の地域の文学の中ではやや浅いかそう深くはない文学の題材となっています。

 しかし偶然ある小説と出会って私は感動しました。

 とても簡単な物語です。日本の女性契約社員が主人公で、収入が少ないながらお金を貯めて世界を周遊しようと思い節約から手を付けるといった話ですが、彼女が世界周遊の願いを実現できたかどうかまでは最後まで描かれていません。

 「家にも食事にも夜の灯りにも夏のエアコンにも冬の暖房にもお金がかかる。」本来とても小さな主題でもうまく描かれていれば心を動かせるもので、「節約」という題材でも暖かさ、憂い、失望を描き、考えさせる物語にできるのです。

 主人公はさまざまな方法で節約を試みます。小説では、ポトスの実を食べてまで食事代を浮かそうと、その食べ方を昼間に考えては夜に夢見る姿が際立って描かれています。「彼女はポトスのいろいろな料理法を夢に見た。葉を千切りにしてサウザンアイランドドレッシングであえたサラダ、根をすりつぶした調味料、茎を具にしたスープなど。味はというとネギほど濃くはなく、ホウレンソウよりはなめらかで、キャベツより少し苦い。レタスほどみずみずしくはないが十分だった。ポトスを食べたナガセはとても満足し、にっこりとしてノートに0と書いた。」

 ディテールの細かい描写は平板でつまらない主人公の生活をわざと誇張してはいません。毎日の仕事がどれほど疲れようと、彼女が夢中でポトスの食べ方を真剣に研究して、出費が0になったことを喜ぶくだりを部外者が読むと、自由に考えてみるのではなく、広々とした都市の寂しく漂流する主人公の生活に自然と溶け込み、多くの記述は要りません。まさにこの本の題名、『ポトスライムの舟』[1]は、主人公のような平凡な人が都市の人込みの中で浮き沈みする隠喩です。私たちはみんな一隻の小舟であり、また小舟のように小さな夢と希望を持っていても、いつ実現するか分からず、細かく考えると苦しく無力感を覚えるものです。

  物語の最後に主人公はポトスが有毒であることに気づき計画は瓦解しますが、淡く失望するものの怒りも恨みもせず、社会や時代対して訴えることもありません。この本は全体がどうにもならない生活と無力さに満ちていますが、悲しみも度を越すことはなく、ほど良いものです。

  しかし深さがないとは言えません。もし最後に主題を昇華させ、冒頭で現代社会の喧噪の背後にある傷口について論じていたなら、かえって主人公の存在が道具として持ち出された「もの」にしか見えず、深く共鳴することはなかったと思います。こうして穏やかにことこまかく主人公の生活を描写しているからこそ、彼女の生活が身近に感じられ、どこかの地下鉄駅ですれ違うかもと思えるのです。私も実習のとき市街地のランチは高いと思って週に1日は果物やパンなどを持ち込んでいましたし、上司に仕事がなっていないと指摘されるとびくびくしてしまうのは、真面目に責任を取る態度のせいだけでなく、将来に自分を養えなくなるのが怖いからです。

  日本文学が惜しみなく一般人にフォーカスを当て関心を寄せるのは、時代を誇張するために人物を書くのではなく、人物そのものがとても重要だからではと思います。読者を物語の世界に引き込んで体験、観察させると、思考の背後にある因果関係もおのずと伝わるのです。

  「思い出してみると、彼女は29歳の誕生日の時も咳をしていた。31歳の誕生日にも咳をしていることだろう。」何年もしたら彼女は体裁も気にせず蚊に刺された箇所をかきながら電話をするといった人間くさい瞬間を思い起こし、心の琴線に触れるかもしれません。

 社会にとってはトマトスープの塩辛さなどまったく重要ではありませんが、個人にとっては枝葉末節が何日もの生活のトーンを決める可能性があります。日本料理のスタイルでは一口分の小鉢も精致この上なく盛りつけられているように、西洋画の色彩も、中国画の余白も、私はその細部のこだわりだけでなく、生活に対するぬくもりと情熱が好きです。人生はかえって平坦さの中で悟るものです。

 あなたは大事だと日本文学は耳元でささやいてくれます。

 両親の子供、友人の知己、会社の社員としてだけ重要なのではなく、自分自身として重要であり、外見が平凡でも家庭が幸福な人は重要で、学習に努めても心に曲折がある人も重要だと。

 大多数の人は自暴自棄というほどでもなく張り切って生きているというほどでもない平凡な生き物でしょう。冷たいというほどでもなく熱いというほどでもない人付き合いをして、まばゆいというほどでもなく暗いというほどでもない未来を持っています。しかしどのようであれ、まずは自分として生活し、独立した理想と気づきを持って、うっかり他人の足を踏んで赤面したり、親友に冷たくされて心を痛めたりするのです。まず自分を大事にしなければ他人を愛することが分かりません。日本人はつきあいが悪いという人がいますが、私は言葉の重みを感じ、かえって成熟した責任感と誠実さを感じます。

 夏目漱石に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という言葉があります。

 英雄のことは書きやすく、普通の人を描くのは難しいものです。

 幸いカイドウの花が眠らず「私」につきあってくれています。

 [1]津村記久子『ポトスライムの舟』、140回芥川賞受賞作品