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定年後の日本のエリート、中国で再就職先を見つける

2016年 12月 19日17:21 提供:新華網日本語

平均寿命が80歳を超える日本での定年退職年齢の下限は60歳である。日本の『高齢者雇用安定法』は、「定年を迎えた社員が希望すれば、企業は65歳まで継続雇用する義務がある」としている。しかし、日本の経済界は、これにより企業は「ほかの従業員の給与削減」と「若者採用の減少」の二者択一を迫られていると見ている。

実は、日本の「エリート退職者」は3つ目の道を見出している。それは、中国に行くという道である。

彼らには大きな優位性がある。40年以上の業務経験を持ち、若い頃に黄金時代を経験し、海外研修に派遣され、海外駐在経験がある人も多く、いわゆる日本の「エリートクラス」である。

67歳の森田満さんは、「Hello!」と流暢な英語で記者の電話に出た。彼は現在、士徳古斯工業設計(深セン)有限公司で建築デザイン部長と営業部長を担当。東京工業大学を卒業した森田さんは、建築界大手の鹿島建設株式会社に長期勤務し、1985年から96年までニューヨークとアトランタに派遣され、流暢な英語を身につけた。これは、のちに中国で仕事する際の「大きな武器」となった。

森田さんは、「仕事が大好きで、気がついたら60歳まで続けていた」と話す。2009年、定年退職年齢になった森田さんは会社に残ることを決めた。しかし残念なことに、彼が担当する仕事はどんどん減り、退屈に感じるようになった。2年後、森田さんは「楽しい場所に移ろう」と決心した。

「まさに縁があり、偶然の出来事だった」と、森田さんは中国企業に採用された当時を振り返る。森田さんは、中国企業が定年退職した日本人を募集しているという情報をインターネットで偶然知った。英語で仕事し中国語は必要ないという条件で、大きな魅力を感じ、以前と同じ仕事ができると思ったという。

同じ仕事とはいえ、多くの差がある。森田さんは、「日本の建築に関する制度は明確で要求も高いが、中国では融通をきかせなければいけない場合が多く、その点で苦労した」と話す。さらに、中国の若者の育成という新しい任務も加わった。数十年の経験、何ができるか、何ができないか、どのようにするかを彼らに教え、取引先の多くが日本企業であるため、簡単な日本語とビジネスマナーも教える。それだけでなく、週末には日本留学を考えている子どもたちの勉強も手伝っている。

定年退職後に中国で仕事をするには2通りの方法がある。1つは、インターネットでの応募、もう1つは中国の知人を通じた紹介である。斎藤実敏さんは2つ目の方法で中国に来た。

今年71歳の斎藤実敏さんは大連遠東数碼有限公司で顧問を担当する。この「顧問」はやや忙しく、日本市場拡大のための企画を出したり、日本の取引先を接待したりするほか、中国人従業員に日本語とビジネスマナーも教えなければいけない。

斉藤さんは卒業後に日立製作所でソフトウェア開発に従事し、第一線と管理職で多くの経験を積んだ。定年退職の年齢になった2006年、彼は中国企業に目をつけた。斉藤さんによると、中国のソフトウェア会社の社長自らが日本を訪れ、話をしてくれた。当時、この中国人社長は日本市場を拡大することが夢で、「力になって欲しい」、「明日にでも来てもらいたい」と言っていた。説得され、約束通り翌年にこの会社に行き、3年後に更なる発展を求めて現在の会社に移ったという。「中国に来る前、妻に1~2年体験したら戻ると言ったのに、もうすぐ10年になる」と笑いながら話す。

この10年で斉藤さんは中日関係の最高潮と最悪期を経験した。「民間方面で、私はできる限りの貢献をしてきた。普段は中国人の同僚と一体となり、心を一つにして協力し合い仕事をしている。また、テニスクラブを開設し、週末は中日両国のテニス好きを集めてテニスを教えている。中国のテニスクラブからもコーチを頼まれ、生徒の多くが日本語のできる中国人。もう中国人、日本人という感覚はなく、みんな家族のようだ」と斉藤さんは話す。

中国で貢献する日本のエリート退職者に関する公式データはなく、互いの交流も少ない。ほとんどが「仕事のある場所に行く」という状況で、その多くが沿岸部や、深セン市、東莞市、広州市、上海市、蘇州市などの南部である。彼らは中国で楽しく働き、生活している。唯一の問題は、言葉が通じず、レストランでの注文が不便なことや、食事に慣れないことである。

森田さんも斉藤さんも、日本に帰る予定はないという、森田さんは、「同じ仕事でも、中国での給料は日本の半分。普通の日本人は日本で働き続け、海外に行く人は少ない。しかし、中国は私にとって第2のふるさと。まだ中国に残りたい」と話した。

(チャイナネット)