ようこそ、中国上海!
最新バージョン

Home >> 新着 >> 専門家 >> 徐静波  >> 正文

高倉健さんの事務所に引っ越し

2015年 9月 28日13:02

 時間の経つのは本当に早いもので、高倉健さんが亡くなってすでに1年になる。

 実は健さんの事務所と私の事務所は東京赤坂の同じビルで、彼は4階、私は3階だった。

 2013年11月、健さんは文化勲章を受章したが、両陛下、皇太子らとの懇談会は欠席した。メディアによると、健さんは風邪に罹っており、天皇陛下にうつることを恐れ参加しなかったという。私は建さんに、文化勲章のお祝いと、インタビューの希望を書いた手紙を送った。一週間後、今は新しい映画の撮影の準備に忙しく、来年の春に連絡しますとの返事をくれた。

 その後、様々な事情で取材は実現しなかったが、昨年の11月に健さんの突然の訃報を聞くことになろうとは、その時は想像もしなかった。この知らせを聞いてとても辛かった。報道でわかったのだが、私に返事をくれた頃、本当は入院中だったのだ。

 私の世代の中国人にとって健さんは偉大な存在であった。「文化大革命」が終わった時、私は中学生だった。その頃、ソ連やアルバニア、ユーゴスラビア、北朝鮮などの革命の映画を除いて、他の外国の映画を見ることはできなかった。1978年の日中平和友好条約の締結を記念して、北京で第一回「日本映画週間」が催され、『君よ、憤怒の河を渉れ』が上映された。これが私たち中国人が初めて高倉健、戦後の日本を知った映画であり、また初めて西側国家の現代生活を目にした映画でもあった。中国社会全体に与えた衝撃は非常に大きなものだった。その後、『幸福の黄色いハンカチ』、『野生の証明』、『遥かなる山の呼び声』などが上映され、始まったばかりの改革開放期の中国女性たちは、この剛毅で正直でクールな男性に魅せられ、その結果中国社会に「中国の高倉健はどこにいるのか」という大論争が巻き起こった。健さんは多くの中国人のアイドルとなったのだ。

 私も映画で高倉健と戦後の日本を知り、過去に中国を侵略した国を好きになった。1992年留学の機会を得た時に、ためらわずに日本を選んだのだった。

 健さんに初めて会ったのは、彼が主演した中国映画『単騎、千里を走る』が東京映画祭に参加した時だった。健さんは張芸謀監督と一緒に舞台に上がり挨拶した。残念ながらその時には話しかけることはできなかった。後になって事務所ビルのエレベーターで偶然会い、初めて同じビルに健さんの事務所があることを知った。まさに奇縁だった。

 健さんが亡くなられた後、私は不動産管理会社の社長に「もし健さんの事務所が閉まるようなことがあれば、そこを私に貸してもらえませんか」と相談した。社長は良い人で、すぐにOKの返事をくれた。今年3月、健さんが20年余り使った事務所が閉鎖となった。そこでリノベーションを経て、5月下旬に引っ越しにこぎつけた。これから中国経済新聞の多くの編集作業をここで行う予定だ。

 私がここを借りたのには実はちょっとした考えがあった。日中両国にファンのいる、健さんという映画スターを記念する場所がまだない。この一室が健さんを記念する一角となり、写真や遺品を展示できないかと考えている。読者の皆様、もし時間があれば事務所に来て、健さんを感じてみませんか。