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随筆漫談(一)

2016年 11月 7日11:11 提供:東方ネット 編集者:兪静斐

  作者:銭 暁波

 思えばこのコラムの仕事をもらってかなりのときが過ぎた。大学での本務の合間を縫って何気無く書いた原稿を数えれば結構な本数になっている。

 仕上げた原稿を提出するたびに、このような駄文でいいかと、自分でも首を傾げながら、訝しく思うほど自信をなくすのである。幸いなことに、好き勝手に書いたこの乱筆乱文でも編集者にご高覧いただき、嫌な顔ひとつせず快く掲載していただいている。講義やほかの業務が忙しくなり、原稿が滞ってしまい、編集者に詫びを入れなければならないときも、怒られることなくいつも丁寧に接していただいている。

 テーマを定めず好き勝手に書かせてくれる。乱文でも駄文でもいやといわずそのまま掲載してくれる。小生を奮い立たせ、ここまで頑張らせてきたのはまさしく編集者のこのやさしさのおかげだといわずにはいられない。

 なにについて書いてほしいという注文をもらうとむしろ窮屈だと感じ、筆が滞ってしまい、なかなか先に進まない。小生のこのへそ曲がりの性分を最初から察知していたかどうか定かではないが、編集者が好きなことを書けばいいと仰るので、この自由さにありがたく甘えさせていただき、喜んで仕事を引き受けたのである。それからは天馬空をゆくの如し、奔放横恣に心を泳がせ、まさに随筆や漫筆の「随」と「漫」を存分にきかせ、思いつくまま書いている。世の中にろくに役立たない小生の本業である文学研究なぞよりも、こちらのほうがよっぽど楽しく、放情自娯の世界にとっぷりと漬かることができるのである。

 ただ一つどうしても気になることがある。

 伝統的な新聞紙と異なって、今ではメディアもほとんどデジタル化し、携帯電話などの端末で読む文章にはほとんど閲読数が付いている。書かれた文章にどれぐらい読者が関心をもっているかをいやでもわざわざ作者に知らせてくれる。科学技術の進歩は大半私たちの生活に良いことをもたらしてくれているが、なかにはまれに嫌気がさすような、いやらしきものもあるようである。この技術は文章力に全く自信のない小生にとってはまことに不必要で実に悩みの種の一つになっている。最初のころは心臓の鼓動を抑えながらドキドキと閲読数をきちんと見守り、分刻みでカウント数の更新を小マメにチェックしていたが、そのうち心臓に毛が生えるようになり、慣れっこぶりを大いに発揮し、あまり読まれなくても厚かましくへらへら笑って誤魔化せるようになった。初老にしては一つ大きく成長することができてこれもまたうれしいことであろう。

 さて、せいぜい埋草の役割しか果たしていない小生のこの二束三文の随筆については多くを語るまい。それより随筆のことをもう少し考えていきたい。

 随筆は一体どんな文章なのかと聞かれてもなかなか定義できないものである。その性質について内田魯庵は『随筆問答』という文の冒頭で次のようにいっている。「何か書けと云われて何か書こうと思ってマジメな論文も考証も書けず、仕方が無しに出鱈目を書くと人が之を随筆と呼んで呉れる」。もちろん、これは魯庵翁の冗談に決まっているが、ある程度随筆の性格を説明してくれている。

 では、次回は随筆の名家の文章について少々語っていきたい。