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孤独なる愉悦(二)

2016年 10月 19日15:48 編集者:兪静斐

  作者:銭 暁波

 前回の続きである。

  デビット·ゾペティ氏の作品『いちげんさん』を取り上げたが、小生はこの作品に通じて意外なところに共感を得ることができた。

 要するに、日本文学を専攻する「僕」は文学研究の本当の意義、あるいは文学というものの本質について深く悩む場面があった。実はこのことも、かつての小生の悩みの一つであった。

 小説の中では、作者は友人の言葉を借りて、なかば冗談に、文学、文学思潮、文学評論、文学研究なぞのことを、すべて一種の「インテレクチュアル·マスターベーション」だとあざけった。

 学問にはさまざまな分野と形式がある。最大な虚学である文学、それもご健在の作家との付き合いが随分うすい一昔前の文学について考えなければならないときに、深い孤独感に襲われることが度々ある。文学の風土ではなく実学の盛行する世の中にどこかさびしいものを感じざるを得なくなるのは確かである。一般の読者のように単なる「読書」という行為を通して楽しむだけではなく、それを史的思考方法により文芸思潮の変遷の根源を求めたり、異国間の文学表現の影響と受容関係について検証したり、いわば文学を一つの学問としてとらえ、「研究」という行為を通して深く掘り下げていこうとすれば、ときには物語そのものを楽しむ余裕もなくなる。その上、その研究を遂行し得た結果を世に示しても、実学のようにすぐに実生活に役に立ちそうなこともなければ、実利を産むようなこともない。そうすると、如何に「研究」という行為の付加価値を見出そうかと、さらに如何に自分の存在価値を証明しようかと、しばしば悩まざるを得なくなる。文学を「研究」しようと志した人間なら一度はこういった悩みに襲われたことがあるのではないかと思う。

 もちろん、「インテレクチュアル·マスターベーション」という色付きのユーモアのセリフをみただけで、たちまち悩みが解消されたわけではない。ただ、これまでのモヤモヤした気持ちをきれいに帰納し、かなり正鵠を射ている表現ではないかと思う。それがゆえに、小生がその言葉を見た途端に、思わずナイスショットと叫びたくなった。

 積極的なニュアンスをもつ言葉ではない。むしろ皮肉、風刺の意味がつよく、また自嘲に使っても最適な言葉であろう。しかし、吟味すればするほど味気が濃くなっていくような言葉だと感じる。漢語になおせば、つまり「知的自慰行為」であるが、漢語では使うのにためらってしまうようなやや暗い、卑猥な表現を外来語であらわすと幾分か明るさと知的さが足されて、またユーモアと含蓄さをも兼備する表現である。外来語でありながらきわめて和風だと感じ、日本語の不思議さがよくあらわれている言葉である。さらに、この言葉の奥底に、愉悦、それも孤独なる愉悦、という意義が隠れているところは小生にとって重要である。

  以来、「インテレクチュアル·マスターベーション」をたびたび自分自身を慰めるための言葉として使うようになった。単に文学研究という行為を解釈する消極的な皮肉、自嘲という意味ではない。それどころか、その言葉から不羈たる心情を感受し、志したことに向かって勇往邁進する積極的な気持ちさえ見出している。

 一つの作品からさまざまな感銘が生まれるが、純愛物語『いちげんさん』から意外な感銘が生まれたのである。(了)