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浅草の「富士山」(二)

2016年 8月 30日16:58 編集者:兪静斐

  作者:銭暁波

 前回の続きである。

 明治20年(1887)11月に、東京庶民の娯楽の中心地、浅草には突如、びっくりするほど大きな「富士山」があらわれた。

 「その頃の浅草公園と云えば、名物が先ず蜘蛛男の見世物、娘剣舞に、玉乗り、源水の独楽廻しに、覗きからくりなどで、せいぜい変った所が、お富士さまの作り物に、メーズと云って、八陣隠れ杉の見世物位でございましたからね」と、江戸川乱歩はかの名作『押絵と旅する男』の中で著している。乱歩がいう「お富士さまの作り物」とはつまり、俗称「ハリボテ富士」と呼ばれている展望台「富士山縦覧場」のことである。

 当時の新聞に掲載された縦覧場の開業広告などの資料をみると、この人工の富士山は木造で、高さ約32.8メートル、裾廻りは273メートルで、その時代の人工物にしては巨大なものであった。徒歩で頂上まで登っていくと、備え付けの天体望遠鏡で「太陽内部の黒点を審らかに望み」、ほかの望遠鏡でも東京の四方八方を見下ろすことができ、さらに本物の富士山も見えるという。1銭5厘の木戸銭(入場料)を払えば、だれでも登頂して眺望することができる。

 太陽黒点まで見えたかどうか定かではないが、ともかく「ハリボテ富士」は大人気であった。翌年の元旦には、初日の出をこの目で見ようと、なんと一万五千人もの物見客たちが馳せ参じた。しかし、二年後の明治22年8月末日に「ハリボテ富士」は暴風雨のため無惨な姿になり、翌年の2月についに取り壊された。

 同じ頃、東京だけではなく、大阪にも「浪速富士」と呼ばれた人工の富士山が作られたようであった。

 高いところに登って遠くまで眺めたい気持ちはどんな時代でも変わらない人間の基本的な欲望の一つである。「ハリボテ富士」が取り壊されたのち、浅草には「凌雲閣」という高い煉瓦の塔が建設され、浅草の新しい名物になった。これについては今度機会があれば、また別の文章で取り上げていきたい。

 さて、話は本物の富士山に戻るが、小生はこれまで遠目、間近、空中で富士山を幾度となく見てきた。しかし、実際に登ったのは一回だけであった。それも厳密にいうと、登るのではなく、バスで五合目までというありきたりの観光コースだった。富士登頂を一度体験したく、この目で雲上の地を眺めてみたい気持ちは学生時代からあったのに、まったく行動力のない小生はいつも計画だけで終わってしまい、まことに残念である。

 昔の基準でいうとすでに初老の境に入った自分だが、そもそも山登りは苦手で、若い時と比べてだいぶ運動の神経が鈍ってきたし、この足腰で富士登頂できるかどうかあまり自信がなくなってきた。

 しかし、

 「中年よ、大志を抱け

  若者になんか負けるな

  あの夢はどこまで続くのか

  自分で限界を決めないで…」

 と、クラーク博士の言葉をアレンジし、歌詞にして唄ったように、年齢を考えず、勇気を出して限界に挑んでいきたい。

 みなさんも、実現できなかった夢をもう一度思い出し、果敢にさまざまな困難に立ち向かい、夢を叶えていってほしい。(了)