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アウトサイダーの荷風先生(二)

2016年 3月 25日17:31 編集者:兪静斐

  銭暁波

 前回の続きである。

 山の手の出の永井荷風がなぜ「河向こう」の下町をこよなく好むか。

 家柄が立派であったゆえに父親は厳格であった。しかし、荷風は久一郎が望んだ道を素直に歩んでいくことを頑なに拒んだ。

 19歳の時、荷風は父親に付いて四ヶ月ほど上海滞在歴があった。余程上海が気に入ったのか、「このまま長く上海に留って、適当な学校を見つけて就学したいと思った」(十九の秋)が、許されず帰京せざるを得なかった。のちに東京外国語学校清語科に入って、本格的に中国語を学ぼうという計画も見事に挫折してしまった。さらに小説家になろうと思って広津柳浪の門下生になり、小説の作法を習った。一方、落語家の朝寝坊むらくに弟子入りして夢之助という名で活動もしていた。青年期の荷風にはすでにその生まれつきの反骨精神をみせていた。

 1903年、24歳の荷風は父親の意向で金融業を学ぶために渡米を果たす。四年後には渡仏し、十ヶ月ほどリヨンに滞在した。アメリカとフランスで正金銀行に勤務した荷風はどうしてもこの職業が肌に合わず、翌年帰朝し、それから徐々に文壇で頭角をあらわした。一方、森鴎外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の教授になった。「講義は面白かった。しかし雑談はそれ以上に面白かった」と評されていたように、大学の講義にも荷風の性格がよくあらわれている。

 以上のように、荷風の性格には不羈な部分があった。山の手の出身だが、下町を好んで歩く趣味は荷風自身の生活態度を示すものである。それは時代の先端を奮迅することを拒否し、自ずから時代の最後尾に身をおき、悠然と人生を漫歩する荷風の文人の気質のあらわれであろう。荷風が亡き親友の井上唖々について感慨深く思い出し、存命中の唖々の言動を書き記した一幕は象徴的なものである。「(唖々)晩年には専漢文の書にのみ親しみ、現時文壇の新作等には見向きだもせず、常にその言文一致の陋なることを憤っていた」(梅雨晴)。時代を逆走する頑固者の姿である。井上唖々が「不願醒客」と号したのもそれと同様な趣がある。

 「(荷風が)一貫して、文壇の流行に従わず、天下の大勢に付和雷同せず、決して批判精神を失わなかった」と加藤周一が評しているように、時代の傍観者とはいえ、荷風は立派な「批判者」であった。この「批判者」である荷風先生が小生は大好きである。

 さて、自ら江戸の戯作者と格下げして、アウトサイダーとしての姿勢を終生崩さなかった荷風先生だが、今日の日本の世相をみて、何というのだろうかね。(了)

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