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上海•大阪交流文集|人文交流の道――民間友好往来に対する嘉定と八尾の探索

2023年 1月 16日13:24 提供:東方網

 八尾市は日本の大阪府中部に位置し、古くは大和と難波を結ぶ交通の要衝であった。

(八尾市総合商業施設Ario)

(每年行われている八尾市河内音頭祭り)

  嘉定と八尾の交流は1980年代初頭に始まる。1981年、元嘉定県と八尾市との友好往来が始まり、1986年9月13日、両地は『上海市嘉定県大阪府八尾市友好協力協議書』に調印した。1992年10月、嘉定が県から区となった後、1993年5月15日、嘉定区と八尾市は正式に友好都市関係を樹立した。

(1985年10月、八尾市役所と市議会代表団が嘉定を訪問)

 1985年10月、八尾市の山脇悦司市長と東口議長は代表団を率いて嘉定県を訪問。嘉定県の第1回農民運動会の開幕式と国慶節の園遊会イベントに参加し、孔廟明倫堂の前に金桂、銀桂の2本の中日友情樹を植えた。同月、八尾市にある日本三和化研工業株式会社は嘉定県と医療用エアクッションの生産工場を合弁で設立することで合意し、馬陸での上海三和医療機器工場の建設を計画した。双方の努力のもと、上海三和医療器械工場(現在は上海三和医療機械有限公司)が1987年12月に正式に操業を開始し、今も生産を続けている。ここで生産されている空気入り医療マットレスは床擦れ予防と物理的治療に最も有効な医療機器であり、製品は一時中日両国市場の空気入り医療マットレスのトップシェアを占めたこともある。

(嘉定県農民運動会开幕式に参加する八尾市役所代表団)

 改革開放の初期、双方の往来は政府と企業代表団の訪問が多かった。これによって一連の農業と経済プロジェクトの協力が推進されたが、交流が発展するに従って、民生と文化分野が双方の交流の重点となっていった。特に青少年交流において大きな発展があり、1983年、初めて結成された八尾市青少年野球チームが八尾市日中友好協会代表団とともに嘉定を訪問し、両地の人文交流の幕を開いた。

(八尾市日中友好協会代表団が嘉定を訪問)

 嘉定運動場で初めて開催された野球の試合は、このスポーツを初めて見た一般市民の興味をそそったのみならず、同行している嘉定側にも交流を深める突破口を見つけさせた。その後十数年間、八尾市の青少年スポーツ代表団は何度も嘉定に来て友好交流試合を行った。

(1984年8月、八尾市卓球代表団が嘉定を訪問)

 双方は当時、書画の分野においても多くの交流を展開した。書道は両国が共有する文化の運び手として、両地の青少年の積極的な反応を引き出した。一緒に展示されていた絵画作品からも、異文化の下で育った子供のそれぞれの世界観に気付くことが出来る。

(この時期行われた書画の交流)

 友好的な雰囲気が色濃くなるにつれて、両地の青少年交流は次第に双方の通常の友好交流プロジェクトになっていった。90年代半ばから両地は2年に1度、青少年交流団を先方の都市に派遣する体験交流を展開し始めた。両地の中学生は相手の学校に入って一緒に授業を受け、生徒の家庭に入って生活を体験し、異文化社会の環境を感じた。

(当時の生徒の交流)

(嘉定―八尾合同チームが「中日友好交流都市中学·高校生卓球友好交流試合」で3位を勝ち取る)

 現在、嘉定区と八尾市の間には強固な友好都市関係ができており、頻繁な連絡と相互関係が確立している。この2年余りのコロナ禍でも連絡を中断させず、防疫物資の相互寄付のほか、オンライン交流の形を通じても新しい人文交流の道を徐々に広げている。

国の交わりは民の相親しむに在り、民の相親しむは心の相通ずるに在り、という。人文交流は国民の心の相通に最も頼れる架け橋であり、人文交流を展開することは、和して同ぜず、様々なものを受け入れる文明交流を促進することに役立つ。嘉定と八尾の人文交流の道は、付き合っていく中で共に興味を持ち、理解できるものを見つけ出すことである。民間友好往来は共通認識の達成を主な目標とする探索行動であり、安定した推進の中で豊かな成果を収め、友好事業が両国民間で広範なコンセンサスと強い合力を形成することを絶えず推進していく。

(2014年1月、嘉定区と八尾市の青少年文化作品展覧会)

(作者:嘉定区外事弁公室)