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上海•大阪交流文集|上海と大阪は似た者同士で気が合う

2023年 1月 9日16:13 提供:東方網

 今年2022年は、1972年の日中国交正常化以来50周年の、記念すべき年である。そして1974年の上海市·大阪市友好姉妹都市提携から48年、1980年の上海市·大阪府友好都市関係樹立から42年である。外部から見れば大阪市と大阪府はどう違うのか理解しがたいと思うが、私たちにも大阪市と大阪府を区別する発想はほとんどない。当時私が住んでいたのは豊中市で、大阪府ではあるが大阪市ではない。しかし所属する会社は当時も今も大阪市にあって、気持ちの上では市民、府民というより「大阪人」の意識である。

 私個人は1975年に北京で開かれた「日本工業技術展覧会」のブース展示と技術紹介セミナーに参加して、1978年からは上海市金山区の「上海石油化学コンビナート」のポリエステルプラント建設の日本側総代表として駐在を始めて以来、その後一貫してひたすら中国関連業務に従事してきた。所属する会社から中国駐在を命じられたことは無いが、業務の都合で大阪と上海間を行き来しながら、1年のほとんどを上海で過ごす生活を今も続けており、1年のうちで8割前後を上海で過ごす上海居住歴も今年で44年になった。したがって生活感覚的にはほとんど上海に染まっている上海人であり、この稿も上海側メンバーとして書かせていただくことにする。

 おそらく1980年代の半ば頃だったと思うが、日本の大阪NHKテレビと上海東方電視台が、衛星回線を使って大阪と上海の両スタジオを繋いで、同時中継の番組を初めて制作した。私もコメンテーターとして出演させてもらって、丁度始めていた上海の合弁会社の中国人従業員の働きぶりなどを紹介させて頂いたことがある。番組の目的は、双方の視聴者に双方の国と地方を紹介することであったが、結論的には、大阪人或いは関西人と上海人はたいへん共通点が多く、開放的、似た者同士で話もよく合う、女性が強くて男勝り、買い物でとりあえず値切るのは売り主への礼儀だ、などなどの話題で盛り上がってたいへん面白い番組であった。後に述べるプラント建設や合弁会社の技術指導員なども、関西人の方がすぐに中国人と仲良く打ち解けて、ノイローゼになったりする人はほとんど居なかったように思うのは、気のせいばかりではないであろう。

 同じく1980年代のことであるが、私は大阪と上海の経済交流のいろいろなイベントにも積極的に参加した。大阪府や大阪市の経済視察団にも現地参加して、中国の各地や日本から参加したメンバーとも交流を深めるようにした。後に大阪市長として中国との交流に尽くされた西尾正也氏が副市長であった時に視察団を率いて上海に来られた時には、全スケジュールに参加して大変印象深かった記憶がある。また同じころに「大阪·上海経済交流会議」(後に関西·上海経済交流会議に改称)が、1年毎に開催地を大阪と上海で持ち回って開催されるようになった。大阪側は関経連や関西経済同友会の財界の方々、それに大阪商工会議所や日中友好協会のメンバー、上海側は市政府の経済貿易委員会、外資工作委員会、対外友好協会などに上海市の企業経営者などで構成されて、宿泊付きで三日間ぐらい活発に意見を交換した。私は上海からの現地参加でほぼ毎年参加して、合弁事業の問題点や従業員の働きぶりを報告した記憶があり、その席上で井上礼之ダイキン会長とも知己を得た。同氏はその時代から「迷うことなく中国へ経営資源を集中!」と社内に号令をかけておられて、その結果が現在の世界に冠たる空調機のダイキンを作りあげられたが、誠に先見の明をお持ちであった。

 私の最初の仕事は前述のように、上海金山の「上海石油化学コンビナート」のプラント建設の技術指導である。2年後の1978年、鄧小平先生が中国の国策として「改革·開放」政策を内外に宣言して、中国が新しい時代に入ったその最初の年から、中国上海で仕事をすることが出来たのは大変幸福なことであった。「中国改革開放··周年」というのは、即私の「中国業務歴··周年」と同じになり、その縁で2008年改革開放30周年とか2018年改革開放40周年の節目には、「改革開放を共に生きた外国人の生き証人」ということで多くのマスコミの取材を受けた。

 私は、上海、済南、ウルムチ、紹興と各地のポリエステルプラント建設に関与したが、1980年代の半ばごろから、工場の製品品質や生産工程の管理技術を中国の人達にしっかりと伝えるためには、売り切りのプラント商売ではなく、中国側の人達と一緒に汗水たらして働く合弁の共同事業をしたいと思い始めていた。1983年に金山のプラントが大成功を収めて、当時の李先念国家主席がプラントを視察された時に、私に対して「中国は遅れているから君たちの助けが必要だ、宜しく頼む」と、握手までして激励して頂いたことは常に頭の中に有って、プラント建設で多くの中国の人達と筆舌に尽くしがたいほどの苦労を共にしてお互いに助け助けられて、プロジェクトとして国家金奨を受章したほどに大成功裡に任務を果たせたことに対する感謝の気持ちも大きかった。

 当時、私の所属していた鐘紡株式会社は創業から100年を超えた古い繊維会社で、多くの中古機械が処分されようとしていたので、私はそれを利用することで古い機械でも管理技術があれば品質の素晴らしい製品を生産できることを伝えたかった。そのような背景で最初に設立したのが、1921年に戦前の鐘紡株式会社が土地買収から始めてイギリスから紡織機械を輸入して設立した当時の上海第19綿紡織廠との合弁事業「上海華鐘ストッキング有限公司」である。1985年頃から交渉を始めて、日本側社内の意見をまとめるのに苦労して時間がかかったが、1986年暮れに調印して1987年に操業を開始した。改革開放の時代に入っても、女性がはけるパンストはまだ少ない。中国の娘たちの美しい脚に本当のパンストをはかせたいと思ったのも動機の一つであった。この合弁事業は中国側パートナーが大変柔軟で、日本側がやりたいようにやらせてくれたお陰で、年々設備を倍増するという大成功を収めた。現在でも「華鐘」というブランドは上海市の著名商標であり、上海の多くの年配女性たちは「華鐘」と聞くと「華鐘ストッキング!!欲しくて何度も第一百貨店の列に並んだわ」と言われる人が多い。また当時の私たちの合弁会社の従業員の働きぶりはすさまじくて、熱セット職場では温度が摂氏40度を越えて30分ごとの休憩を義務付けたが、従業員たちは生産高をあげようと誰かが昏倒するまで休もうとせず、遂には見張り番迄つけて強制的に休ませるほどであった。


 そしてこの最初の合弁会社の成功が契機となって、「華鐘」シリーズの中国における合弁事業は20社を超えるまでに拡大して、どれも成功をおさめた。ただ残念ながら2004年に日本の親会社が経営破綻して、現在社名が残って存続している華鐘を冠した会社は、弊社を含めて数社に過ぎない。

 過去のことを思い出せば、きりがないが、大きくは確かに「大阪と上海の似た者同士で気が合う」の枠組みの中で仕事をしてきたという思いがあって、そのような両地区の交流の成果として、関西地区企業の上海進出が大変多かったし、私たちもその一員として仕事をさせていただいてきたという感慨があるのも確かである。今後とも両地区が手を携えてますますの提携の実をあげられることを祈念して本稿の終わりとしたい。

(作者:華鐘コンサルタントグループ董事長 古林恒雄)