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上海•大阪交流文集|度尽劫波兄弟在:田中潤治会長との思い出

2022年 12月 14日11:10 提供:東方網

  2022年2月24日、魯迅文化基金会は上海で特別な追悼会を行った。2021年9月に世を去った日本大阪府豊中市日中友好協会の田中潤治会長を偲ぶためである。田中潤治会長は享年92歳。多年にわたり中日友好のために心を捧げた様々なイメージが、私の目の前に浮かび上がってくる。

(2014年10月筆者(左)大阪で田中会長との記念写真)

  度尽劫波兄弟在ーー魯迅と日本の友人西村真琴との感動的な物語

  田中会長が住んでいた大阪府豊中市は、中国そして魯迅と深い関わりを持っている。1932年、日本侵略軍は上海で「一二八」事変を起こした。大阪毎日新聞社に勤めていた生物学者の西村真琴は当時上海に滞在していて、閘北三義里の戦争の焼け跡で瀕死の一羽の鳩を見つけた。哀れみの情がわいた西村はこの鳩を日本に連れ帰り、「三義」と名付けて大阪府豊中市にある自宅で飼育した。彼は三義鳩が日本で生んだ子鳩を平和の象徴として中国の友人に贈るつもりだったのだ。しかし三義鳩は不幸にして死に、悲しんだ西村は三義鳩を自宅の庭に埋めて、「三義塚」と書いた碑石を立てた。1933年2月、西村は三義鳩の一周忌に合わせて「子鳩三義の図」という三義鳩の図を描いた。そして和歌一首を詠んで添え、上海に住んでいた魯迅に郵送してこの絵を題材に漢詩を作ってくれるよう頼んだ。1933年6月、魯迅は「題三義塔」という有名な漢詩を作り、真琴の和歌への返歌とした。


  奔霆飛熛殲人子,敗井殘垣剩餓鳩。

  偶值大心離火宅,終遺高塔念瀛洲。

  精禽夢覺仍銜石,闘士誠堅共抗流。

  度尽劫波兄弟在,相逢一笑泯恩仇。


  この感動的な物語は中日友好の美談となり、この漢詩は後の人々が常に引用する名作となった。

  (1986年10月豊中市建立50周年の際、豊中市は三義塚の碑石を中央公民館の前に移設。西村真琴は過去にこの館の館長職を担ったことがある。)

  (2020年2月、新型コロナウイルス感染症が蔓延したが、豊中市日中友好協会と西日本地域中国留学生学友会は中国湖北省にコロナ対策の支援物資を送った。物資の箱の表には魯迅先生の「度尽劫波兄弟在」という名句が書かれた)

  先輩の精神を伝承し、中日友好に力を尽くす

  このような豊中市に住んでいたからこそ、田中潤治会長は中国と上海に常に深いおもいを抱いていたのだろう。田中会長も創立に関与した豊中市日中友好協会は、1998年に発足してからずっと中国との交流を重視している。私が上海魯迅記念館館長を勤めていた2004年には、上海市人民対外友好協会の推薦を受けて、大阪府日中友好協会の記念館青年研修生として瞿斌さんが渡日。瞿斌さんは研修に当たって、魯迅と西村真琴を主要なテーマとして研究した。そして田中会長は豊中市日中友好協会会長として、自ら瞿斌さんに指導教官を指名し、瞿斌さんと一緒に西村真琴の故郷を訪ねた。田中会長の魯迅に対する真摯な感情と中日友好に対する熱意は瞿斌さんの心を深く動かした。豊中市友好協会の心を込めた世話と指導のもと、瞿斌さんは専門研究や業務能力において大きな進歩を収め、中日友好と文化交流に積極的な役割を果たせる優秀な人材に成長した。

  2010年の上海万博期間中、上海魯迅記念館は友好関係のある各国の友人を万博に招待したが、田中会長も10人余りのグループを作って、自ら上海へ率いて来てくれた。そのころすでに81歳で足を病んでいたが、車椅子を使って非常な意気込みで一日中万博園を見学した。

  私は田中会長の健康状態を心配していたが、2012年10月に豊中市で再会した時に精神と体力が充実している様子を見てほっとした。田中会長は自ら運転して空港まで迎えに来て、旅行中は連日付き添ってくれたばかりか、夜10時まで一緒にいてくれたことも少なくない。本当にありがたいと思って感動していた。

  私のその時の訪問は、豊中市日中友好協会が主催する一連の友好活動に参加するためだった。2012年、中日関係は困難に遭い、中日友好は低潮に陥っていた。都合が悪いだろうと思う一部の人々は友好活動を行う勇気がなくなったが、田中会長は立場を変えず、一連の活動を推し進めていった。その中には「魯迅留日100周年記念大会」や上海魯迅記念館と合同主催した「魯迅と日本の友人」展覧会などがある。他にも私が首席講師を担当した「魯迅『題三義塔』の再解読」というレクチャーがある。このレクチャーは大人気となり、参加者数は150人から250人にのぼり、空前の盛況とも言えた。私はこの活動を通じ、日本国民が中日友好史上の美談へ関心を持っていることや魯迅を愛する気持ちがよくわかった。

  当時上海市人民対外友好協会の常務副会長だった汪小澍さんは、豊中市で開催された「日中友好協会成立15周年記念会」に参加するためにわざわざ日本へやってきた。彼は豊中市友好協会の友好を堅持する精神を高く評価し、「両国関係が困難であればあるほど、民間人が積極的に友好活動を行わなければならない。そうしてはじめて『度尽劫波兄弟在』の精神を実践し、両国関係の回復に役割を果たすことができる」とあいさつした。

  2013年10月の豊中市日中友好協会成立15周年記念会。(筆者:前列左から5番目)と田中潤治会長(前列左から4番目)。

2017年、魯迅文化基金会は「大家の間の対話:魯迅と夏目漱石」という活動を行い、田中会長が後押しして大阪で「魯迅の姿」という展覧会が行われた。展示パネルが上海から豊中市に届くと、田中会長のお宅で預かってもらった。魯迅の長孫である周令飛さんに率いられた約30人の魯迅文化基金会訪日代表団一行は、この大阪と豊中での活動に参加する中で、田中会長の温かいもてなしに感動し、心から感謝した。

  このような田中会長の粘り強い活動と努力によって、豊中市日中友好協会の活動は生き生きとかつ成功裡に展開し、長年にわたって中国側の多くの地方や機構と友好交流関係を打ち立ててきた。田中会長は生前ずっと豊中市と上海虹口区が友好都市区関係を締結できればと願っていて、それを目指して尽力を続けた。残念ながらそれはまだ実現していないが、魯迅先生が住んでいたゆかりの場所であり、「三義鳩」の美談を伝えるこの両地が友好都市区関係を結ぶことは非常な意義があると私も考えており、田中会長の未了の念願が実現する日を心から望んでいる。

  田中潤治会長はその生涯と通して魯迅と西村真琴の真の友好の志を受け継ぎ、「精衛海を填む」の精神を持って、終始一貫、中日友好のために全力を尽くしてきた。両国人民は田中会長のことを決して忘れないだろう。

(作者:王錫栄 魯迅文化基金会首席専門家、上海魯迅記念館元館長)