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2019年「第11回鑑真東渡日中青少年文化交流」活動

2019年 9月 19日16:30 提供:東方網 編集者:範易成

 9月6日から8日まで、NPO法人、亜細亜新生交流協会理事長、亜細亜大学都市創造学部教授の范雲涛氏を代表とする11人の学生代表団は、鑑真和尚の足跡を辿ろうと揚州市に赴き、2019年「第11回鑑真東渡日中青少年文化交流」活動を開催しました。

 講座を聞きながら交流:

 この活動の中で揚州公共外交協会は、地方史の専門家である王虎華氏を招いて、「鑑真精神と文化伝承」という特別講座を学生のために行いました。冒頭のあいさつで揚州公共外交協会の湯天波副会長は、揚州は中日友好交流の重要なきずなであることを強調し、次のように述べました。「1200年以上前の唐の時代、日本の遣唐使が揚州から中国に上陸し、運河に沿って長安に行きました。揚州は鑑真和尚の故郷であり、今も鑑真和尚が住職を務めた大明寺や鑑真和尚が渡航した埠頭が残っています。揚州と日本の唐津、厚木、奈良は友好交流都市として、双方の交流は経済、文化、科学教育、衛生、スポーツなど多くの分野に及んでいます」。

 講座を聞いた後、日本の大学生は、鑑真和尚渡航の時代背景や、中日文化交流の諸問題などについて、専門家や学者と討論しました。鑑真和尚は日本では誰でも知っている歴史上の人物で、6回の挑戦の末に日本に渡ったことが教科書にも書かれています。鑑真和尚は日本のためにお経を持って行っただけでなく、中国文化も伝播しました。仏教、医薬、書道などの方面で、鑑真和尚は日本に非常に深い影響を与えました。NPO法人亜細亜新生交流協会は、主催団体として、2008年9月からこれまで、11年にわたり鑑真東渡日中青少年文化交流活動を開催してきました。これをきっかけとして、日中青少年友好事業の発展がより大きく推進して欲しいと願っています。

 大明寺の紹介:

 大明寺では、日本で三年修行したことのある仁如法師が、初めて大明寺を訪れた日本の大学生に向けて、大明寺の由来を流暢な日本語で紹介しました。大明寺は清の時代には“敕题法净寺”という名前で存在していましたが、1980年に鑑真像が最初に日本から里帰りした時、「大明寺」に改名しました。唐の時代、日本は制度であれ、言語であれ、服装であれ、生活習慣であれ、唐の文化を全面的に学びました。造船技術においては、唐代に建設された遠洋船は長さ20丈余りで、数百人を乗せることができ、船体は堅固で、波風を防ぐ能力が強かったと伝えられています。しかし残念なことに、鑑真が日本に渡った壮挙は当時認められず、一度は海賊行為として告発されました。もし最後に日本の遣唐使の船に乗らなかったら、鑑真和尚がこれまで日本へ渡ろうと挑戦したことは水泡に帰していたかもしれません。京都大学4年生の友田朝子さんは、「今回は鑑真と縁のある大明寺を訪問しました。訪中前に奈良の唐招提寺を訪れましたが、二つの寺は似ている気がします。日中両国の交流経験をこの目で見られてとても嬉しいです」。

 文峰寺の紹介:

 大運河は文峰寺の前をゆったりと流れています。鑑真和尚は大雲寺で出家し、大明寺弘法で布教に努め、6回の渡航の挑戦のうち4回は文峰寺の埠頭から出発しています。日本の大学生代表団は文峰寺を訪れて揚州の大学生と交流し、改めて「博愛、平和、開拓、開放」の鑑真精神を感じました。日中双方は仏教文化のほかに、外国語の学習や仕事での過労、ゴミの分別についても話し合いました。そして最後に和尚さんと一緒にみんなで精進料理(青菜と椎茸の炒め物、油揚げ、冬瓜の昆布スープ)を食べて別れを惜しみました。亜細亜大学4年生の山下敦大さんは、「日中両国が関心を持っている話題について、揚州で日本語を勉強している大学生と文峰寺でお茶を飲みながら話をしました。その後、精進料理を体験した時には、生きるためではなく病気にならないために食べるという説明を聞きながら美味しく頂きました。古都·揚州ならではの文化を堪能することができ、私にとって貴重な経験でした」と述べました。

 痩西湖と東関街を遊覧:

 揚州市は改革開放後、日本の国宝鑑真像の里帰りを歓迎するため、北城河から大明寺山麓までの約4キロの河床を全面的に浚渫しました。日中両国の学生はここを渡る遊覧船に乗りながら、さらに友情を深めます。亜細亜大学4年生の澤田樹奈は、「痩西湖では揚州の緑豊かな自然に驚きつつも、とても癒されました。そのおかげもあって地元の学生と自然と仲も深まり、貴重なひと時となりました」と述べました。 揚州には「東関街」という夜市があります。運河が開通すると外側は運河に繋がり、内側は連城区の大通りに沿うことで、徐々に最も活発な商業貿易往来と文化交流の集積地になりました。日本の大学生代表団は揚州新東方外国語学校の生徒約10人と一緒に夜市を訪れ、充実した有意義な週末を過ごしました。澤田樹奈さんは、「東関ストリートでは、新東方外国語学校の高校生とペアを組み、食べ歩きながら案内してもらいました。wechatも交換し、お互いに語学や文化の勉強にもなりますし、友達もできました」と述べました。

 ぬいぐるみ工場見学:

 日本のアニメ·漫画と揚州の微布坊には異曲同工の趣があります。そのため主にぬいぐるみを制作する「布玩ドリームワークス」の訪問は、日本の大学生たちにとって興味津々でした。布玩ドリームワークス創始者兼デザイナーの李佳潤氏によると、揚州の微布坊製品はすでに欧米や日本などの国に輸出され、世界市場の40%を占めています。亜細亜大学4年生の藤田理菜さんは、「揚州でぬいぐるみ生産が盛んなのは初めて知ったので、この見学を通してまた一つ揚州について知ることが出来ました。日本でも中国製の製品はよく見るので、これらのぬいぐるみたちも日中の架け橋の一つになるものだと改めて感じました」と述べました。

 紅木文化:

 ちょうど第5回揚州紅木文化祭の開催直前に、日本の大学生代表団は「揚州海天世紀紅木文化楼」を訪問しました。このビルは約6年前に建てられ、床面積は約1万平方メートルで、現在、長江デルタ地区では最大規模の紅木家具体験館です。総経理助理の陳夢煕氏によると、ここの紅木の品種は非常に豊富で、ミャンマーの花梨、大紅酸枝、小葉紫檀、海南黄花梨及びベトナムの黄色花梨などもあり、揚州の紅木文化の発展にも長期的に取り組んでいます。京都府立大学1年生の高橋侑吾さんは、「中国の伝統的な家具を展示している博物館を訪れました。展示されている家具は、世界各国の首脳が訪中した際に座るような椅子や、中国の皇帝だけが座ることを許されていた椅子など、どれも最高級のものでした。私が特に感動したのは、それぞれの家具に施されている彫刻です。とてもきめ細かく彫られ、家具とうまく調和していて美しく、さらに一つ一つの彫刻にそれぞれ意味が与えられているのです。また、どの木製の家具にもあまり派手な色は塗られておらず、木の味わいが残っていました。このような仕上げ方は日本の家具と共通していると思い、中国と日本は地理的にも精神的にも近しい国だと感じました」と述べました。

 古琴体験と歓迎パーティー:

 茶芸館で日中両国の大学生はお茶を飲みながら琴の演奏を鑑賞し、続いて、日本の大学生がチャイナドレスを着て古琴を習う体験をしました。澤田樹奈さんは、「日本の琴と通じるところがあって、とても楽しかったです」と言いました。その後に行われたパーティーでは、揚州の有名シェフの刀切豆腐のパフォーマンスや、人形劇「貴妃酔酒」の演技を見学しました。そしてみんなで「世界に一つだけの花」を合唱したり、中国側が「ソーラン節」を歌ったりするなど、みんなで歌って踊って、パーティーは最高に盛り上がりました。

 終わりに:

 訪問期間はあっという間に過ぎ、日本の大学生訪中団は9日、相次いで帰国の途に就きました。中国で今回の接待活動に参加した陳志博さんは、「鑑真が日本に渡ったのは歴史上の中日両国の文化交流の模範です。日中社会の背景はさまざまですが、今回は一緒にお茶を飲みながら曲を鑑賞したり、一緒に過ごした時間は私達にとって非常に貴重な経験です」と述べました。南通から参加し、南京郵電大学通達学院で勉強している楊筱玉さんは、「友情は国境を問わず、すべてを笑顔で伝えていくことができます。お互いの言葉はよく分かりませんが、仲良く笑うだけでも楽しいです」と語りました。

(作者:Z)