ようこそ、中国上海!
在上海多国籍企業職場復帰ケース

Home >> 新着 >> 上海

上海万博に全力を尽くす 堺屋太一追悼座談会が上海で開催

2019年 3月 25日17:14 提供:東方網 編集者:範易成

  東方ネット25日付:日本の元経済企画庁長官で、小説家、評論家の堺屋太一氏が、今年2月に東京で死去した。堺屋氏と中国の縁は深く、1980年代から度々上海を訪ねて上海万博成功に尽力し、「上海万博男」と呼ばれていた。

  堺屋太一の業績を振り返って中日関係の改善につなげようと、3月21日、上海国際問題研究院、上海万博博物館、上海市日本学会、東方シンクタンクの共催で「堺屋太一座談会」が上海で開催された。中日の関係者50人あまりが参加した。

座談会会場

  堺屋氏は1935年生まれ。日本の経済企画庁長官を務め、小説家、評論家である。位階は従三位。勲等は旭日大綬章。経済企画庁長官の他、内閣特別顧問、内閣官房参与などを歴任した。また、株式会社堺屋太一事務所および株式会社堺屋太一研究所の代表取締役社長であり、様々な博覧会のプロデューサーとしても活動した。

  1970年に開かれた大阪万博の企画·実施に携わったほか、2005年の愛知万博では顧問を務めた。そして、2010年上海万博では、日本産業館の代表兼総合プロデューサーを務めた。

  座談会では、万博のために堺屋氏と一緒に働いた中日両国の関係者が、彼との思い出を振り返った。

  1984年、堺屋氏は汪道涵上海市長に中国発展の起爆剤として万博の開催を提案する。そして翌年の1985年に上海を4回訪れて、万博構想の具体化を進めていった。1999年に中国政府が上海万博の提案を正式的に批准すると、堺屋氏は日本での万博の経験を、すべて中国開催の成功のために注ぎ込んでいった。

日本産業館

  上海万博の準備期間中、世界は金融危機に陥ったが、堺屋氏の上海万博成功に対する自信は揺るがなかった。そして中日の貿易関係を考慮して、日本の企業が共同参加する「日本産業館」の建設を提案。上海万博への出展を通して、日本の技術と企業文化を表現して存在価値をアピールするよう企業に積極的に働きかけた。さらに上海万国博日本産業館出展合同会社の代表も務めた。

  日本産業館は敷地面積4000平方メートルとなり、期間中に約560万人が訪れる最も人気がある展示館の一つとなった。

  2017年11月、中日国交正常化45周年を記念するため、上海で中日経済学術シンポジウムが開催された。シンポジウムでは上海万博による提携が話題となったので、堺屋氏もゲストとて参加した。それが最後の上海公式訪問となった。

2017年11月に上海のシンポジウに参加する堺屋氏

  人生最後の段階にあっても、堺屋氏は万博に関心を持ち続けていたという。「もし2025年に日本で再び万博が開催されたら、人々は現在の低欲望社会から抜け出して、もう一度理想と希望を抱くようになる。そうすればきっと世界に愛と欲望が生み出されるだろう」、と語っていた。

(編集:f)