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上海

【改革開放40周年40人】谷村新司:アジアの人を音楽で繋げ行く

2018年11月15日 16:10
 提供:東方ネット 編集者:範易成

  「ああ 砕け散る、運命の星たちよ、せめて密やかに、この身を照らせよ……」2018年9月21日、谷村新司(69歳)は1年ぶりに再び上海でコンサートを開いた。中国の人々に最もよく知られている名曲「昴」を朗々と歌い、そして後半を中国語で歌い始めると、会場には割れるような拍手と歓声が沸き上がった。彼に対する人々の記憶は様々だ。日本の有名なミュージシャン、中国のポップ·ミュージックを数多く作曲した原作者、上海音楽学院の教授、そして中日友好の使者……

  38年が経っても星は輝き続ける

  「38年の星」がテーマの今回のコンサートで、谷村は1980年から作り始めた曲の中から21曲を選んだ。オープニングとラストの曲は同じ「昴」だ。コンサートの終盤、彼は会場の千人のファンと合唱した。そして「私はまた20年歌い続けたい」、と心を込めて観客に話しかけた。これに対して中国のファンは、「それならまた20年後に、貴方のコンサートを見に来よう」と応えた。

2018上海コンサート

2018上海コンサート

  谷村新司は1981年に初めて中国を訪ねて以来、コンサートでは必ず「昴」を歌っている。「昴」という曲は多くの中国人歌手もカバーしていて、メロディーはすでに共通の記憶となっているが、実は本来この「昴」も、中国と深い関係があるのだ。

  子供の時、谷村はまぶたを閉じると、広々とした草原と高い山、そして空に瞬く星がいつも目の前に広がった。そこは中国のどこかの場所のようであり、まるで前世の故郷のようでもあった。このインスピレーションから1980年に作られたのが「昴」という曲である。その当時彼はまだ32歳だったが、宇宙の秘密と生命の意味を見通したようなすばらしい歌詞が生まれたのだ。

  38年が経ち、谷村新司の声はもう若いとは言えない。しかし「昴」はワインのように時が経つにつれていい匂いを出している。彼は相変わらずステージで最も輝き、会場のファンを魅了してやまないスターなのだ。

 初めて上海でコンサート 毛阿敏と友達になる

  谷村新司が初めて上海のステージに立ったのは1994年である。この年の10月、上海市人民対外友好協会、毎日放送、上海東方テレビ局が共催するアジア音楽会で、彼は5国·地域からの5人の歌手と共演した。

  「コンサート当日は、本当に多くのファン、5千~6千人ぐらいが来てくれました。私は中国、韓国、インドネシアなどのアジア各国からの歌手と一緒に、自分の国の言葉で歌いました。上海出身の毛阿敏はその時共演した歌手の一人で、それ以来ずっと友達で、友情は本当に長い間続いています」。

1994年上海コンサート紹介

  当時コンサート会場では、観客は最初、自分の国の言葉以外の歌を聴いて戸惑っていた。だが言葉が分からなくても、歌っている人の気持ちや情熱がじわじわと伝わっていった。「聞いていくうちにだんだん心が響いて、最後にはみんな熱狂的に盛り上がって終わったんです」、と谷村新司は思い出を語った。

  上海は僕の第二の故郷

  「1994年来た時、上海はエネルギーとパワーに溢れていて、それで上海の皆さんが明るくて元気でした。あの時から上海の人たちが大好きになって、それから縁がつながりました」

  谷村は2002年に自分を見直すために一切の活動を休止。その後2003年に、上海音楽学院より教授として招かれて、天命を感じて引き受けた。毎月一週間、上海を訪れて授業を行った。

授業する谷村新司氏

  「僕はそれまで、自分はシンガーでアーティストであっても、大学の先生をしたことはありませんでした。しかし上海音楽学院の楊院長が僕にこう言ったんです。中国の音楽大学はクラシックがメインで、技術や理論も素晴らしいものがある。しかし、自分自身で歌を作る、自分でメロディーを作って歌って、そしてステージでパフォーマンスをする。そういうことを学生に教えられるのは谷村さんしかいない、と私を誘ってくれたんです」

  人を教えるのは谷村にとっても初めての経験だった。最初のクラスの学生は50人ぐらい。初めての授業で、これまで詞を書いたことがある人は手を挙げて、と彼が質問したら、手を挙げたのは2人だけ。みんなその経験がないと分かった。そこでまず自分の気持ちを言葉に書こうという授業を始める。みんなそれぞれ個性が違う。一人一人の個性を引き出すこと、それが一番重要な授業だと谷村は考えた。

  中国との縁の原点

  1981年、谷村新司は日中友好協会のアレンジでアリスとして訪中。これが彼と中国の付き合いの原点だ。北京の工人体育館で中国の歌手と一緒に共演した「Hand in Hand」のコンサートは、改革開放以来初めて開かれた大規模なコンサートだった。

1981年北京コンサート会場

 コンサートでは、観衆席の真ん中に、主賓である鄧小平氏が座っていた。谷村が彼を前にして熱唱すると、鄧氏は立ち上がって歌のリズムに合わせて手を叩き始めた。すると会場にいる1万の観客も、皆、立ち上がった。その瞬間、谷村新司は音楽には国境がない、どこの国から来ても、音楽に対する感覚は通じ合うのだ、と心から感じた。

  改革開放について谷村は、「鄧小平氏が始めたこの改革開放があったから、みんな自由に他の国の文化を学ぶチャンスができたのです。そのおかげで日本の人と中国の人が話をして、一緒にご飯を食べてお酒を飲んで友達になるチャンスをもらいました。そうやって縁が繋がりました」、と語った。

  1981年の北京のコンサートで、最後のさよならパーティーをしている時、谷村はある通訳の学生から「日本はなぜアジア大陸に背中を向けるのですか」、と質問された。「僕にとってはすごくショックでした。それまで確かにアメリカ文化ばかり勉強していましたから。彼の言葉でそれに気付いて、それで自分がやることは、アジアの人を音楽で繋げようと、それを自分の役割にしようと考えたのです」。

谷村新司が書いた中国の改革開放への希望:夢

(作者:范易成)