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【改革開放40周年40人】ライフワーク中日交流の使者になる=星屋秀幸氏

2018年 9月 14日9:27 提供:東方ネット 編集者:曹俊

 日本で唯一、中国由来の地名である岐阜県で1950年に生まれた。1972年、大学3年生の時、中日両国の国交正常化を知り、中国の人々と触れ合う仕事をしたいと考え、日本の総合商社·三井物産を就職先に選ぶ。1979年、三井物産中国留学生の第一期生として、中国に赴いた。1995年、三井物産上海総経理として上海に赴任し、白玉蘭賞を2回受賞。2014年からは上海環球金融中心有限公司の総経理として上海に再赴任。日本に帰国後、2017年中華人民共和国公安部から永久居留許可証が付与される。

 彼の名前は星屋秀幸。中国と深い縁で結ばれた日本人だ。

写真説明:人生の経験を語る星屋秀幸

北京留学時代に中日交流という人生の目標を決めた

 1972年、田中角栄首相の訪中により日中国交正常化が実現した歴史的なニュースをテレビで見た時、星屋は中国と親しく交流できる時代が近いうちに到来するに違いない、と興奮した。そして中国の人々と触れ合う仕事をしたいと大学の指導教官に相談すると、総合商社ならチャンスが多いと言われ、専攻は工学部土木工学科であったが三井物産を就職先に選んだ。

 1974年、入社後最初の仕事は国内の鋼材営業で、海外に行くチャンスはなかった。しかし1978年8月に『日中平和条約』が締結され、同じ年に中国最高指導者の鄧小平氏が訪日し、新日本製鐵の君津製鉄所を訪問。中国鉄鋼業の近代化のために宝山製鉄所建設の協力を要請した。三井物産は新日本製鐵の有力なパートナーであることから、これに合わせて三井物産では、中国要員育成のために初の中国留学生募集を行い、星屋は迷わず手を挙げた。こうして彼は三井物産中国留学生の第一陣5名の一人となった。

 1979年9月8日、29歳の星屋は北京に向かうJL781便に乗った。東方書店で購入した「毛主席語録」の中古本、衣類、ガイドブック·辞書·中国専門書、常備薬、カメラと沢山のフィルム、ラジカセや乾電池などを持参して、ワクワクしながら初めて中国の地·北京首都空港に降り立った。そして北京語言学院に一年間留学し、その後中国との長くて深い縁が始まったのである。

 憧れの中国に到着したものの、当時の中国の首都空港は駐機している飛行機も少なく寂しい限り、空港施設も貧弱だった。空港から北京語言学院までの道路は牧歌的な農道のようで、道路脇から突然に羊の群れが現れ、道を横断することもよくあった。キャンパスにはアフリカ·中近東·東欧·北朝鮮などの発展途上国の留学生が多かった。食堂·トイレ·シャワー·部屋を案内されたが、日本と比べると貧弱で不衛生で複雑な規則もあり一年間の留学生活に不安がよぎった。

 写真説明: 「外貨券支払領収書」(左)と「外国人旅行証」(右)

 街は無数の自転車とバスで埋め尽くされ、人々は皆同じような人民服を着ており、全体的に色彩がなく埃っぽい感じがした。ただ空は抜けるように蒼く、「これが有名な『北京秋天』か」と頷いた。王府井にある有名デパートに入り、店内の様子を見たら、商品が少なくて服務員は実に無愛想で販売意欲のかけらもない。北京では食堂、バス、デパート、ホテルの従業員を呼ぶのに「同志(トンチ)!」と呼ばなくてはいけない、と教えられた。外国人の買い物には、人民元とは別の「外貨券」、食堂では「配給券」、北京を離れて旅行するには公安局の発給する「国内旅行証」が必要だった。中国の計画経済の産物に、彼は少し慣れないものを感じた。


写真説明:1979年、北京語言学院留学時代の星屋秀幸(左から2人目)。中国のクラスメートとの記念写真。右から1人目は徐静波氏(現、復旦大学日本研究中心教授)。

 しかし、早めに留学生活に慣れようと、色々な観光地を見て回って中国の歴史文化を理解するうち、多くの友達もできてきた。帰国間近には、『人民日報』に『私のふるさと』という文章を投稿して掲載された。同紙に掲載された初の外国人の投稿文章だといわれた。

 1979年12月に、北京の中国人民政治協商会議礼堂で、訪中していた大平正芳総理の特別講演会があった。日本人留学生が招待されて、彼も参加した。大平総理が「日本政府は今後総力を挙げて中国経済発展のため、企業·関係機関·市民·大学と連携し広範な対中協力を推進する。21世紀を迎えても日中は幾多の荒波に遭遇するだろうが、二千年の日中間の友好往来の歴史に立てば、お互いの手を取り合って乗り越えることができる」と語るのを聞いて、大きな感銘を受ける。そして中国ビジネスをライフワークにしようと決心した。自分の人生を変えたのは、この演説だったのかもしれないと思う。

中日経済交流新時代 宝鋼の発展と浦東開発を物語る

 一年間の留学生活が終わった後、星屋は天津に開設された三井物産天津事務所の初代駐在として赴任した。そして1981年、重要課題となった宝鋼第一期工場の建設促進のために宝鋼1号高炉の建設現場に行き、中日協力プロジェクトで働く中日スタッフの熱情に感動する。中日交流の新時代がまもなく来ることを確信した。

 新日本製鐵は宝鋼の建設に協力した後、宝鋼集団に先進的な製鉄業を教えた。しかし市場経済での鉄鋼の流通は、日本では鉄鋼メーカーではなく総合商社がやっている。それで1990年のある日、彼は三井物産の経営管理幹部から、「宝鋼集団に日本の総合商社との戦略提携を提案し、一日も早く両社の業務協力体制の構築を図るように」という特命を受けた。その後は毎月のように上海に通い、人材交流·市場経済化専門講座·貿易投資促進·幹部交流からなる「総合合作協定書」を1991年4月に締結した。こうして三井物産と宝鋼集団は、全面的な戦略提携のパートナーになった。

 この協定書をいっそう進めるため、1995年、星屋秀幸は45歳で三井物産上海総経理として上海に赴任することになり、家族を連れて上海虹橋ビラに入居した。アーイー(お手伝いさん)が雇えるので、妻は買い物をしたり同じ駐在員夫人と一緒に食事に出かけたりして上海生活を楽しむようになった。子供は小学生5年生の息子と3年生の娘の二人であったが、家の近くにある日本人学校に通学し、心配されたいじめもなく、すぐにみんなと仲良しになって友達もできた。彼らはすぐに上海の生活になれて、上海のファンになった。

 上海の街の姿はどんどん変わっていった。地下鉄1号線(南北線)が貫通し、高速道路の工事が進んで近代的な高層マンションが沢山できた。商店街には商品があふれ、従業員は笑顔でサービスも圧倒的に改善した。以前は市民の洋服もいわゆる「中山服·人民服」で藍の単色系だったが、今はすっかりカラフルに変わり、個性的なファッションを楽しむようになった。東京との生活格差もどんどん小さくなってきていることを実感する。上海の発展のスピードには本当に驚くばかりだ。

 写真説明:1993年、中国鋼鉄市場経済化専門講座――宝鋼鋼鉄生産知識研修班。中央が星屋

 この時の赴任でまず取り組んだ仕事は、鉄鋼業と自動車産業の有機的協業の日本モデルと米国モデルを詳しく紹介し、将来の「中国モデル」を一緒に研究することだった。そこで彼は、宝鋼集団幹部·中国自動車メーカー代表の20人と共に3週間、東京·名古屋·ニューヨーク、デトロイト、シカゴ、ナッシュビルなどの自動車会社本社や工場、鋼材サービスセンター、研究開発センターを訪問し交流した。考察を通じて中国側幹部は、トヨタ生産方式によるジャストインタイムなどに大きな関心を寄せた。数回の交流を経た後、宝鋼と三井物産は中国の鋼材加工センターを統括して、一緒に合弁会社を設立して経営することになった。また、三井物産と上海ゼネラルモーターズの協力も大きく進んだ。 

 上海に赴任した時、彼はすぐに浦東新区に視察に行った。三井物産のビジネスパートナーである森ビルが浦東新区に2棟の超高層ビル建設のプロジェクトを決断し、1994年に土地の購入契約に調印したからだ。当時の浦東は倉庫や工場、畑が多くて、国家級の国際貿易金融街を10年で建設するという壮大な計画など、誰にも信じてもらえなかった。本社経営陣は浦東の発展には懐疑的であり、上海オフィスの入居している都心部の瑞金大廈から浦東陸家嘴にある上海森茂国際大廈への移転は、本社からも上海の職員からも反対された。しかし森ビルからは、三井物産は出資者でもあり、浦東オフィス移転を早期に決定して欲しい、と要請された。

写真撮影:1996年、当時の上海副市長·浦東新区区長の趙啓正氏が星屋秀幸氏と会見

 板挟みとなって困っている時、1996年3月、星屋は当時の上海副市長·浦東新区区長の趙啓正氏を訪問して率直にこの問題を相談した。趙啓正副市長の回答は明快で、「三井物産上海の状況は分かりました。丁度、来月東京出張の予定があります。三井物産本社の責任者と会わせてください。私が星屋総経理に替わって、浦東開発の展望と上海経済の現状について説明し、オフィス浦東移転を促します」と約束してくれた。このおかげでその後は社内での浦東開発に対する疑念が徐々に薄らいでいったが、それでも上海の女性職員の一部は、浦東移転に泣いて反対した。そこで星屋は、「日本人の私が上海浦東の発展を確信しているのに、上海人の皆さんはなぜ浦東の発展をあまり信用していないのか」と説得した。何度も説明を重ねた後、上海の社員も三井物産上海の決定を理解しするようになった。

 そしてついに1996年6月20日、上海花園飯店において上海森茂国際大廈への入居第一号の企業として、前例のないビル竣工前の入居契約に調印をした。星屋は心の中で「本日、移転契約書に調印した以上は、上海事業を大発展させなければならない。それが現地職員や本社経営陣に対する上海総経理からの恩返しだ」とつぶやいた。結果は大成功だった。趙啓正副市長が約束した通り、浦東のビジネスインフラは段階的に着実に改善され、三井物産の職員は上海森茂国際大廈の新しいオフィス環境で伸び伸びと業務に専心し、事業を拡大させてくれた。星屋の上海在任期間は、最初の8年間も黒字経営だったが、浦東移転後には収益が急増して本社からも高く評価され、浦東移転の経営判断の正しさを証明できたことは彼にとって大きな喜びだった。

 写真説明:1996年、上海花園飯店で上海森茂国際大廈への入居契約に調印

 星屋は2003年に東京本店に帰任し、三井物産鉄鋼部門で中国事業に取り組んだ。だが森ビル上海事業の協力をしたことが縁で、三井物産を退職して、2008年には森ビルの特別顧問に就任した。そして2014年、64歳というもう若くない年齢ながら、上海駐在の機会をもらい、上海森ビル·上海環球金融中心有限公司の総経理という重責に就いた。

 2年余の任期を無事全うして帰国した後、2017年6月、『中国との絆(きずな)――我が私の人生の旅』を上海人民出版社から自費出版し、若いときから現在までの、中国との40年間にわたる縁を振り返った。

中日民間交流、生涯の取り組み

 星屋秀幸はこれまで、1998年の揚子江の洪水被害への支援、1999年、復旦大学へ日本の著名な作家·永井荷風の作品集贈呈、2015年と2016年に森ビルが援助して建設した都江堰奎光小学校の先生と児童を上海に招待、2015年の人民中国社主催「パンダ杯」全日本青年作文コンクールの審査委員など、中日交流の各舞台で幅広く活躍している。

写真説明:2015年、都江堰奎光小学校の「森記念図書館」を訪問する星屋秀幸

 星屋秀幸は三井物産上海の総経理を務めている間、上海へ大きな貢献を行ったことを評価されて、1999年に白玉蘭紀念奨、2003年に白玉蘭栄誉奨を受賞する栄誉に恵まれた。(上海白玉蘭奨とは、上海に顕著な貢献があった外国人を上海市政府がたたえる制度で、これまで多くの日本人が受賞している)

 彼の作である『駐瀘抒懐』(最初の漢字を縦に読むと「三井物産星屋秀幸」となる)の詩には、上海への気持ちと中日交流への期待が現れている。

三年変様大上海

井然有序新浦東

物資豊富靠貿易

産業発達重流通

星月同輝日中情

屋宇独高気象宏

秀女俊男斉努力

幸福人生世紀隆

 

 白玉蘭賞受賞者同士が上海での縁と友情を深められるよう、2014年、星屋秀幸は上海市人民対外友好協会と協力して「日本人上海白玉蘭会」を立ち上げた。年に一度春に、上海または東京で白玉蘭受賞者が集うこの会は、これまでもう5回開催されている。

 2017年の秋、上海市政府から連絡があった。中華人民共和国公安部が永久居留許可証を付与する、と言われた。永久ビザ保有者に対しては、一年で中国にできるだけ90日以上滞在するようにとの条件がある。星屋は「私はすでに任期を終えて帰国して東京勤務をしており、出張では90日以上は達成できないので、永久ビザはもう必要ないのでは」と思ったが、上海市人民対外友好協会の友人は、会社の出張だけではなく、中日友好交流で幅広く活躍してほしいとの意味ではないか、と彼に助言した。そこで星屋は、これからも元気でいる間は日中草の根·民間交流に一生懸命に取り組むことを改めて決意した。

 写真説明:改革開放40周年へのメッセージ:日中友好 新時代 一帯一路 有希望

 星屋は最後にこう語った。今年は中国改革開放40周年であり、中日平和条約締結40周年でもある。アジアにおける中日関係は非常に重要だ。これからの中日関係は、常に「互恵平等、謙虚に交流できる関係」であるべきだ。両国の若い人々に大きな期待を持っている。隣国同士、とても近いのだから、若者らはビジネスだけではなく、各地を訪問し、文化やスポーツなど幅広い交流を積み重ねて友情を深めてほしい。中日交流には無限の可能性があると信じている。

(曹 俊)