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清明節はお盆? 由来と風俗

2018年 4月 4日15:49 提供:東方ネット 編集者:王笑陽

 

 (北宋)張択端筆、清明上河図(一部)、故宮博物館蔵

  清明節でにぎわう北宋の都である汴京(べんけい)の光景を描いたものと言われている

 中国はまもなく4月5日から7日までの、清明節連休を迎える。中国語では「チンミンジェ」と読む。清明節は祖先の墓参りをする祝日で、日本のお盆のようなものとされるが、実際にはその時期と由来は異なっている。今回は清明節について、由来やその過ごし方について紹介する。

 清明節とお盆は完全に同じとは言えない。

 お盆は日本で夏に行われる祖先の霊を祀る一連の行事で、「盂蘭盆会」の略称ともされている。中国でも「お盆」があり、それは一般的に「盂蘭節」か「中元節」、または「鬼節」や「七月半」と呼ばれている。区別といえば、中国では「鬼節」は旧暦の7月15日(そのゆえ七月半とも)であるのに対し、日本では改暦に伴い「お盆」は1月遅れの太陽暦の8月15日を中心とした期間に行われることになった。

 時期から見て、清明節は日本の春のお彼岸に近い。「清明」は中国の二十四節気の一つで、春分の15日後が「清明」である。これに対して日本では、春のお彼岸は春分の日を中心にした1週間を指す。

 お彼岸でも、お盆でも、その由来は仏教と関わっているが、清明節の由来は仏教とは関係がなさそうだ。

『清明』、晩唐の詩人、杜牧のよく知られた詩である

 その由来と風俗には幾つかの起源がある。まず二十四節気の一つである清明から始まった、という説だ。中国の二十四節は、一年中の気候の変化や動植物の周期的現象などによって発明されたもので、古代の中国人にとって耕作や家蚕飼育などの農作業をするときの重要な基準であった。清明という節気は、春風が吹き、草木が芽生え、清々しく明るくて生命力のあふれる季節になるので、農業を重んじる古代の中国社会において大切な節気になった。それゆえ、節気の「清明」が清明節の起源であると考えられている。

 もう一つの説は「寒食節」である。寒食節は春秋時代の晋の忠臣、介子推を記念したことが由来とされる。

 当時晋国の公子であった重耳は、政治の争いの中から身を守るため、家臣たちと共に晋を脱出した。しかし途中で食べ物がなくなり、空腹のあまり息が絶えようとしていた。そのとき、家臣の介子推は自らの足の肉を王子に与え、その命を救った。19年後、晋の国王になった重耳、いわゆる晋文公は、亡命した時に従ってくれた家臣たちへ皆厚い褒賞を与えたが、ただ介子推のことだけを忘れてしまった。介子推は功績を争うことを厭い、山に隠棲した。そのことを聞いた晋文公は恥ずかしく思って介子推を探し出そうとしたが、正確な居場所がわからなかった。そのとき、ある家臣が山に火をつけたら介子推が出てくるだろうと進言した。晋文公はこの案を聞き入れて山に火をつけた。だが、火が山を燃やし尽くしても介子推は現れず、そしてある柳の木の中で死んでいるのが発見された。その傍らには「割肉奉君尽丹心,但愿主公常清明(我が肉を割いて君主に奉じたのはまさに忠誠心からに他ならない。ただ我、君主の常に清明なることを願う)」と書いた遺書が残っていた。そこで介子推を悼むために、晋文公はその日を寒食節(火を炊くことを忌み、冷たいものを食べる)と決め、それに続く日を清明節とした。

 清明節にお墓参りに行く風習が定着したのは秦、漢の時代からだ。唐代になると、寒食節と清明節を一緒に過ごすことが多くなり、宋、元の時代になると、清明節は段々と寒食節に取って代わっていった。

 このほかにも清明節は上巳節(旧暦3月3日)と融合し、上巳節の風俗であった「踏青」(青草を踏む、つまり春に出かけること)を吸収した。唐の時代、人々はお墓参りが終わると、郊外で春になった喜びを味わった。そして現在になっても清明節の風習は変わらず、人々はみなお墓参りと「踏青」を楽しんでいる。