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上海

(朱鷺杯中日友好作文コンクール)『中国にまた行ける日を夢見つつ 永遠の眠りにつきしか貴方は』

2018年3月23日 16:01
 提供:東方ネット 編集者:範易成

 中国と日本は地理的にも近く、文化的にも相通じるものを持っている。今年は中日国交正常化45周年を迎える。 この45年間を振り返って見れば、民間交流を進める中で感動したことや印象的だったことが多い。 両国民の相互理解と友好を促進するため、中国駐新潟総領事館では、去年8月~12月に「朱鷺杯中日友好作文コンクール」を開催した。 そして今年、領事館では、コンクールの優勝者を招いて、中国の上海や江蘇などを訪問してもらった。

 ではここで優勝者の作文を読んでいただこう。

『中国にまた行ける日を夢見つつ 永遠の眠りにつきしか貴方は』

作者:深谷文子

 

2007年に中国を訪ねる深谷文子と父

 今年の4月、父は91歳で長き人生の旅を終えました。88歳の母は安らかに眠る父の顔をじっと見つめ、この句を書きました。  

 私の家族は日本人です。が、お正月にはおせちではなくみんなで水餃子を作りお腹いっぱいになるまで食べるというちょっと変わった家庭で、私は育ちました。幼い頃から餃子と言えば当たり前の様に皮からこねて、1枚1枚麺棒で伸ばしては一つずつ包みながら、父と母はよく中国の話をしてくれました。

深谷文子の両親

 父は福島で生まれ19歳の時兵隊に志願し中国東北地域に渡りました。飛行機の部品を作っていたそうですが戦争に負け山の中を逃げていたが中国人の捕虜となりその技術を教える事になったと。母は佐渡ケ島で生まれ16歳の時に“開拓団”で中国東北地域に渡ったが半年で終戦、命からがら逃げて中国人に助けられたと。そして、二人が出会って結婚して日本に帰ってくるまでの十数年間中国で暮らしていたそうです。戦後に生まれ育った私にとっては父と母の経験したことは何となくわかってもあまり実感としては理解はできていませんでした。それでも父と母が暮らした中国というところはどんな所だろう、いつかは行ってみたいと思っていたのでした。 

 そんな10年前の2007年、父と一緒に中国に行けるチャンスが訪れました。私は単純にうれしくてとてもワクワクしていました。しかし私はその旅で、ようやく父と母の話を理解する事ができるようになったのです。  

深谷文子の父が50年代に上海で撮った写真

深谷文子の母の写真

 最初に訪れたのは長春の街でした。車窓から次々と見えてくる重厚な建物が、日本人が建てたもので現在も使われているという説明にびっくりして自分の耳を疑いました。父や母から日本が中国を侵略して作り上げた中国東北地域があったという話は聞いていましたが、実際に皇帝がいたという建物の横を通った時には私はショックで言葉を失っていました。今まで想像することもできなかった事実が目の前を通り過ぎ、戦争の傷跡を見たようでとても辛くなってしまったのでした。北京郊外の航空博物館には当時使われていた本物の戦闘機がたくさん保管されていてまた驚きました。父はこのような戦闘機の計測器を作っていたと話してくれました。計測器は機体の頭にあたるとても狭い所にあり下から潜り込むようにして中国の学生に技術を教え言葉も分からない若い中国の学生はとても熱心に指導を受けたということです。老航校記念館にはとても寒そうに防寒服をまとった中国人と日本人達の白黒の写真が沢山ありました。父はその写真を指差しながら当時の様子を話してくれました。戦争に負けた国の軍隊が中国の空軍創立のために技術を教えることになったが言葉も通じない。飛行機もなければ部品も道具もない、ガソリンもない。すると中国人たちは雪と氷の中、何日もかけて馬車であちこちに放置された機体の残骸を運んできたのだと。そうやって苦労して集めてきた部品を工夫し力を合わせて何とか練習機を作りあげたそうです。そんな練習機で日本人パイロットが教官となって中国人に飛行技術を教え、それでも中国人はあきらめず敗戦国の師を仰ぎ信頼し技術を学んでいった。お互いを信頼する気持ちがなければきっとできなかった事でしょう。一つの目標に向かい成し遂げた時、強い友情が芽生えた事が想像できました。そして60年以上過ぎても尚、その日本人を敬う気持ちを忘れずに伝えていること、またその時に亡くなってしまった日本人のお墓も牡丹江で大切に守ってくれているという事を知り私は心を打たれました。

深谷文子と母

 けれども、牡丹江のお墓のすぐ隣には関東軍に攻められ犠牲になった13歳から20歳前後の8人の中国人の若い女性達の資料館がありました。私はその悲劇を初めて知りとても胸が苦しくなりましたが、なぜ恨みのある日本人のお墓と隣合わせにあるのかとても複雑な気持ちになったのでした。そして、中国の人はこれはこれ、それはそれときちんと区別し、恩は恩として忘れないという考え方を理解した時、私は深く感動を覚えました。  

 父は今、生前に自分で作った『友好』の文字が刻まれた墓石の下に静かに眠っています。これからは年老いた母から少しでも多く中国人と日本人の間に生まれた友情の話を聞き、自分の子供、孫にも伝えていきたいと思います。みんなで美味しい水餃子を包みながら。


下記のは深谷文子の父が2007年に書いた手記

回娘家団に参加して

作者:深谷岩光

 今回の牡丹江訪問は、帰国することなくかの地に眠っている戦友の墓参と、墓を立派に立て直し守ってくださっている人民政府に対する感謝とお礼のあいさつが目的でした。

 私にとって、牡丹江訪問は二度目でした。第一回目は1986年の航空学校創立40周年であった。あの当時、日本国際友人の墓は飛行場が遠くに見える広い野原の空き地に中国の烈士の人々のお墓と共に祭られていました。今回、案内されたところは、立派な門構えがあり入り口に「日本友人墓区」と大きく書かれており、30mあまりの参道の奥に故日本人国際友人の墓碑が建てられ、側面には老航校建設の途上で亡くなられた33名の方々の名前が刻まれていました。 今回の回娘家団の副団長である入角和男さんのお姉さん(入角敏子さん)、山本真代さんのお母さん(西村節子さん)も眠っておりました。皆で献花し、墓前で静かに目を閉じていると60年前の思い出が走馬灯のように次々と脳裏に浮かんで流れていきました。 政府側で準備していただいた記念の植樹を皆で行ないました。私たちの子供や孫たちが来る頃は、大きな松の木になっていることでしょう。中国空軍の関係者たちも2列に並び、一礼、二礼、三礼と礼拝していただきました。

 革命烈士記念館がすぐ近くにあり、見学させてもらいました。入口に有名な8名の中国女性革命烈士の石像があり、日本侵略軍と最後まで戦い、13歳の少女を含め8名の戦士が力尽き牡丹江に身を投じたという歴史の事実がいろいろな物語や写真と共に展示されてありました。 牡丹江には林飛行隊がまとまって八路軍に参加し、中国の人達と共に航空学校をつくるという事で仕事を始めた所でした。 「神国日本がなぜ負けたのか」「今後はどうなるのか」当時20歳の私は、何もわかりませんでした。

 日本人の政治指導員による思想学習が始められ、日本の始めた戦争の目的はなんであったのか、東洋平和の為などではなく中国に対する侵略戦争であったこと、私達日本の兵隊が行なった事は日本の安全を守る事などではなく、中国の人達をどんなに苦しめてきたことか、学習する中で次第にわかってきました。中国空軍航校創設に参加することは、私達の罪ほろぼしのようなものだと考えるようになりました。

 まだ16,17歳の中国の少年たちは、「先生、先生」と私達を呼び、言葉の障害を乗り越え実に熱心に技術を習得していきました。私は自分の弟のような思いで毎日楽しく仕事をすることができました。学生たちは感が良く優秀でした。中国人、日本人などという感情はなく兄弟のような友情で結ばれていきました。その後、私は学生(曹徳山)と共にハルピンの航校に移動し今度は女の学生も加え仕事をすることになりました。 前回の訪中の折には、「曹徳山」、「李秀英」、「刘振华」、「毓芳」達と会ったが、今回は会うことができなませんでした。しかし私の脳裏には、あの困難な時期に皆よく頑張りぬいた輝かしい時代の記憶がまるで昨日の事の様に蘇りました。

 今回の訪中で初めて知り合った、山本真代さんは、東安の飛行場で仕事をしていた時、一緒になった操縦(パイロット)教官の糸川さんの娘さんでした。私が修理した各種の計測器のテストの為、飛行機(九九高練)に同乗したこともあり、夜行列車の中で真代さんとその事を語り合いました。 北京、長春、牡丹江、大連、各地で私達のために中国指導部の方達の並々ならぬ温かい配慮に頭の下がる思いをしました。上部の思いが、下部の人達までよく理解されていました。

 私の青春時代、中国空軍創設のために役立ったことを一生の誇りとして、この感激を孫の代まで伝えてゆこうと強く思いました。 「中国空軍万歳!」

(2007年9月)