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第二回 A BOOK先生に対する印象
2002年 12月 30日15:13 / 提供:

作者:許 陽陽

 私は日本語科の学生として日本の方と交流する経験があった。その方は安福という、もとはわが上海水産大学で日本語の教師をされて、今兵庫県住んでいる六十代のお年寄りである。

 どうして日本のお年寄りと交流しているんだかと思う人がいるかもしれないが、実は私は大学二年生の時、ヒヤリングと会話のレベルがあまり高くなかったので、ずっと『もし、日本人と交流するチャンスがあれば、いいな』と思っていたのである。ある日、この夢をやっとかなえた。安福先生をわが大学日本語科の先生となった。先生は中国語ができないので、その日から私が先生の日常生活のお世話役を担当することになった。

 最初は、いろいろな難問にぶつかった。なぜかというと先生は大阪出身で、時時大阪弁で話されるので、私は全然分からなかった。でも、先生はいつもペンとノート、そして辞書などを引きながら、筆談を通して交流したのだ。あっという間に一年間が過ぎ去った。短かかった
が、私が学んだものは少なくなかった。

 まず、先生から日本における習慣や考え方などを理解したことである。そして先生と交流するうちに、自分の会話のレベルもだんだん高くなってきたことである。一方、先生も日常生活のあいさつなど簡単な中国語ができるようになった。

 一番印象深いのは生活の中で、先生はやさしくてユーモアたっぶり。初めて自己紹介なさった時、先生は『私は安福です、英語の発音でa  bookです』とおっしゃった。しかし、授業中、先生は非常に厳しくて私に対しても例外でなかった。ある日、友達の一人が先生の授業を欠席したがって、私にヒヤリングの答案を別の紙に書いてくれないかと頼んだが、私は拒否せず応じた結果、不意に先生に気付かれた。先生はメンズを顧みず私を叱った、『許君、いつもあなたを信じていましたが、班長として、あなたのやりかたをほかの学生たちがどう思いますか』。そのお話を伺った私は非常に後悔した。でも、先生に対し、怨みの気持ちを持たないばかりか、逆に先生をもっと尊敬するようになった。今日に至っても忘れがたい。

 大学三年生の時、安福先生は事情により帰国された。その後、ずっと連絡をとっている。今年の三月の下旬、先生は観光のため、上海にいらっしゃった。私は先生とお会いし、日本語で交流した。その後二日間、先生と一緒に上海の近郊と杭州へ旅行に行って、二人とも楽しか
った。安福先生は『許君、いつもお世話になり、本当にありがとう』とおっしゃった瞬間、私は感動した。確かに安福先生と『忘年交』、つまり、年齢や世代を超越して、友達になった。
                              

 

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