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第十四回 松山に住んでみた
2004年 6月 2日11:35 / 提供:

趙星海

中国虹橋国際旅行社日本部部長

(一)         

 松山は人口四十万ぐらいの小さな町だ。でも、有名な道後温泉と夏目漱石の“ぼっちゃん”のおかげで、ほとんどの日本人が知っている。

松

 私は松山で約3年間滞在して、その後は、仕事のため、東京に移った。何時だったかは覚えていないが、会社の同僚が私に聞いた。“前は松山に住んだって?なぜそんな所へ行ったの?”そんなところ?そんなところはなんだ、私は少し不愉快になった。“松山へ行ったことないでしょう、とてもいいところですよ”私は同僚の質問に答えるかわりにこう言ったのを十何年経ったいまでも覚えている。

  私が松山へ行った当時は、中国からの直行便はなかったので、まず大阪に降りた。そして大阪で半日時間をつぶし、夜大阪発松山行きの関西汽船に乗った。私はいちばんやすい船室にした。汽船の係員に案内され、船室に入ってみると、大勢の人がいっしょに寝る畳式の船室だった。“毛布は向こうでお借りください”と係員に言われ、私は行ってみると有料だった。たいした金額でもなかったので、借りることにした。

  船室ではもう横になっている人もいれば、雑誌を読んでいる人、また世間話をしている人、一人でタバコを吸っている人もいた。私はそれらの人たちを見ていると、なぜか懐かしい思いがした。

   船は汽笛を鳴らしながら動き出した。私は船室を出て、自動販売機でジュースを買って飲みながら、船内をぶらぶら回ってみた。船内の販売店には中国で見たことのない雑誌や、包装のきれいなお菓子などが並べられ、どれも珍しく見えた。デッキーに出てみたら、大阪港にチラチラと見えた灯火も闇の中に消え、船は瀬戸内海を航行していた。瀬戸内海の名前は大学時代から知っていた。瀬戸内海の写真も絵も見たことはないが、仙境みたいな所だという話は聞いている。どんな所かと、一度想像してみたことがある。

  でも、瀬戸内海をこの目で見るとは夢にも思わなかった。周囲は真っ暗で、いくら仙境みたいな瀬戸内海が見たくても、翌日夜明けするまで待たなければならなかった。私は船室に戻った。船室にはすでに鼾をかきながら寝ている人もいた。私も横になった。そして、松山はどんなところだろうか、とひたすら想像してみた。また、学校のこと、明日から住むアパートのこと、保証人の会社のこと、といろいろ考えているうちに眠りについた。

   朝、目が覚めたら、もう外は明るくなり、船もスピートを落として、静かに航行していた。デッキーに出てみると港と低い山影が見えてきた。その時“まもなく松山港につきます。”とアナウンスがあった。そこが松山だと思うとすごく興奮してきた。

 とうとう汽船は松山港に到着、私は船からおりた。そしてすぐ保証人に連絡をし、保証人がくるまでに少し松山を見ておこうと待合室を出た。待合室前の通りの向かい側に古い一戸建ての家がずらりと並んでいた。駅や港ではよく見かける人並みはまったくなく、時折バスとタクシーが通っていくぐらいだった。松山はいなかだとは聞いていたが、こんないなかだとは思わなかった。ここが何ヶ月も前から楽しみにしていた松山なのだろうか、松山はこんなところだったのかと思うと少し寂しい感じがした。            

中華ラーメン屋のおじいさん

小

  松山について二三日経ったある夕方、私が北京で添乗員をした時に案内したお客様が私の住んでいるアパートを訪ねてきた。白石と言って、元々愛媛県庁に勤めていたが、その時はすでに定年退職していた。

  夜食事にと誘われ、喜んでいっしょに行った。松山の繁華街である銀天街の近くにある小さな居酒屋に入り、カウンターの前に座ると、“この人は中国から来た趙さんです。”と白石さんが私のことをママさんに紹介した。“そうですか、それはそれは”ととても親切に私を迎えてくれた。居酒屋の客は私たち二人しかいなかった。ママさんは早口で、中国のことをいろいろ私に聞いた。一時間ぐらい経ってもほかの客は入っていなかった。食事もそろそろ終わろうとする時、ママさんがこの近くにラーメン屋をやっている中国人のおじいさんがいる、行ってみよう、趙さんが中国から来たと知ったら必ず喜びますよ。というから、私も喜んで行くことにした。

 夜の松山の繁華街は色とりどりのネオンに飾られてとてもきれいで、また賑やかだった。最初松山港の待合室を出た時はちょっと寂しい感じもしたが、市内に入るにつれ、だんだん町らしくなり、このぐらいだったらいけると、ホットした。

 私は二人について、繁華街をわたって、ある横町に入った。しばらく歩くと前方左側に中華ラーメンと書いた赤い暖簾が見えてきた。引き戸を押開けると同時に“いらっしゃいませ”との声が聞こえてきた。中に入ってみると、とても小さい店で、カウンターの前に六七人しか座れないところだった。そのカウンターの後ろに八十歳近くにみえる老人が立っていた。いうまでもなくこの老人が店のご主人だ。老人はママさんだとわかると“しばらくです。”とあいさつした。“この人は中国人です。趙さん”とママさんが私を指しながら早口で私のことを紹介した。そうですか、そして私の方に向けて“中国来的??”(中国から来たのか)と中国語で聞いた。

 私たち三人はカウンターの前に座り、焼きギョーザを少し注文した。ギョーザを焼いている老人に“おじいさんも中国人ですか”とたずねると、私の質問に“いいえ、私は日本人です。”と答えるのを聞いて私はエットと思った。老人はしばらくして焼きギョーザを私たち三人の前に置くと、自分が戦争の時中国に行ったことや、そのうち中国人の娘と結婚をしてずっと中国で生活をしたかったことや、日本が負けて、妻と一緒に台湾に渡ったが、妻に死なれ、日本に戻ってきた、というようなことを中国語で話してくれた。妻はとてもきれいで、優しい人ですよ、それが妻です。と、壁に掛けてある古い写真を指さしながら私に言った。

 見ると確かにきれいでやさしそうな顔をしていた。その髪形や身なりは昔の中国の女そのものだった。 私たちはずっと中国語で会話をしていた。白石さんとママさんはさっぱりわからないから、二人で何か喋っていた。私はすみませんねとお侘びすると、どうぞどうぞ、おじいさんは久しぶりに中国人に会って、とても懐かしいでしょうね。とママさんが言った。老人も、“久しぶりに中国語で話すもんで、”と二人に言った。

  私たちは約一時間ぐらい会話をしていた。店の中の客はやはり私たち三人しかいなかった。 “息子さんとか娘さんたちは?”と私が聞くと、娘がひとりいますが、離婚して自分の子供たちと神戸に住んでいます。” “娘さんはどんな仕事をしていますか”と私は聞いた。 “いまは無職です。それで私が働いてお金を送るのです。”と “そうだったら、いっしょに住めばいいのに、おじいさんのお手伝いもできるし” “それが……”老人はちょっと返事に戸惑った様子だった。 “娘さんはよく松山に来ますか” “来ません。”と老人は短く言って、また“話しばかりして、ギョーザ食べてください。もう冷えたでしょう。”と言い換えた。 “だじょうぶです。”と私は言ってしばらく黙っていた。

  私は再び奥さんの写真を見あげた。その優しい目つきはちょうどカウンターの老人をいつまでも見守っているように見えた。

 私は急に老人のことをそっとしておこうと思った。もうこれ以上何を言ったらいいかわからなくなった。考えてみれば、私は戸籍を調べるおまわりさん以上にいろいろ聞いた。

  私は白石さんのところに目を向けた。白石さんも私の意味をわかったように、“だいぶ話ましたな、じや、そろそろ失礼しましょうか”と勘定しょうとしたら、老人はどうじてもお金を受け取らなかった。

  店を出るとママさんも“だいぶ話しましたね、何を言ったの”と私に聞いた。私は先聞いたことを二人に説明して、“このおじいさんは日本人ですよ”というとママさんは“そうですか、でもよくいろいろ聞いたものですね、私はもう何年も付き合っていたのに、ずっと中国人だとばかりおもっていたのヨ。そこが中国人と日本人の違いネ”と言って笑った。